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第10回 人生最大の報酬とは,知的活動そのものである:キュリー夫人のラジウム発見と被曝

マリ・キュリー(1867〜1934)

医療になくてはならないX線は,1895年にレントゲンによって発見されたのは皆の知るところである。翌年ベクレルが,ウランに放射線を出す能力(放射能)があることを発見し,キュリー夫人(マリ)が夫ピエールとともにウラン以外の元素も調べ,1898年にポロニウム,ラジウムを発見している。マリとピエールは純粋なラジウムを作り出すのにくずウラン11トンをひたすら精製したとされる。自分たちの発見のためとはいえ,気の長くなるような肉体労働であったに違いない。

マリとピエールのポロニウム,ラジウムの発見は,同時に被曝による放射線障害の始まりでもあった。1900年に放射線が生物組織に影響を与えることがわかると,ピエールはラジウムを腕に貼り付け,皮膚の損傷が起こることを確認した。1918年頃(第一次世界大戦後),徐々に放射線被曝による人体への危険性が認知されるようになったため,マリたち放射性物質を取り扱う研究者は被曝に対して鉛の遮蔽や手袋の使用を徹底するようになった。しかしながら,当のマリは素手で放射性物質を持ったり,放射性同位体を含む試験管を腹のポケットに入れて運んだりと,被曝に対しての防護が杜撰だったようである。彼女の手にはラジウムによるやけどの跡が多数存在していた。晩年,彼女は手関節の骨折がなかなか治らない,目がよく見えない(白内障と思われる),再生不良性貧血の発症など,さまざまな症状に悩まされる。これは長年の被曝の影響であると考えられるが,彼女は被曝による健康被害を認めることはなかった。彼女の実験室や直筆の論文などは今でも放射線が検知されることより,彼女の偉大な功績はその大量の放射線が証明しているともいえる。彼女の娘のイレーヌ,娘婿のフレデリックも同様の研究でノーベル賞をもらっているが,被曝による健康障害と思われる白血病で死去している(ちなみにピエールだけは交通事故で亡くなった)。

マリとピエールはラジウム精製法の特許を取らなかったため,工業的生産も盛んに行われるようになった。ラジウムは空気中で青白く光るため,かつては時計の夜光塗料として使用されていた。この夜光塗料を塗るのがラジウムガールとよばれる当時の花形職業であった。夜光塗料を塗る際,筆先を細くするためにペロっと舐めることを工場側から推奨されていたため,彼女らは後に下顎骨の骨折,骨壊死,骨肉腫とさまざまな疾患が発生した。この内部被曝による最初の死者は1922年であり,マリが亡くなる12年前である。

また,ラジウムの細胞障害を生じる危険性が報告されている一方で,世間では少量なら健康によいものとして扱われ,ラジウム水,ラジウム入りバター,ラジウム入り牛乳,ラジウム入り精力剤? などが作られていた。被曝の危険性が周知されるまで,何人が犠牲になったのか想像すると恐ろしい。

ラジウムはアルファ線(ヘリウム原子核)を放出する(その後電子をもらい受け安定したヘリウムになる)。質量があり飛程が短く(数mm〜数cmであっと言う間にエネルギーを損失),紙の薄さで止まる(外部遮蔽は容易)。しかし,線エネルギー付与が高く限局された領域での細胞障害が強い。現在,ラジウムは去勢抵抗性前立腺癌の骨転移の治療で用いられている。

文献
1)エーヴ・キュリー著,河野万里子翻訳.キュリー夫人伝.第542版.東京:白水社;2014.

(『関節外科2023年 Vol.42 No.5』掲載)


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