いまだに固形石鹸を使うということ

こんばんは,物書きになりたかった医学生あさひです。

みなさんは液体せっけんを使ってらっしゃるでしょうか。僕はいまだに固形石鹸を使用しています。このことを話すと友人には少しだけ驚かれます。たぶんどうでもいい話題なので,あまり驚く必要がないのでしょう。今日はそんなどうでもいい話題に,本質的な話題が潜んでいるという話です。固形石鹸使ってるなんて古い,みたいな反応もあるわけですが,(固形石鹸が昔のものという考えは偏見なのかもしれないけど)個人的には「固形石鹸」という概念自体が古き良き銭湯のイメージをもたらしてくれます。あくまでも,僕の中で,ですが。

話がそれますが,古き良き銭湯というと,まずとにかく入り口は引き戸じゃないといけない。あれをガラガラと大げさな音を立ててあけて,引き戸に垂れ下がってきている暖簾をくぐると,だいたいおばちゃんが座っていて,そこでお金を払う。その脇にはコーヒー牛乳だとかフルーツ牛乳がぎっしりと並べられた背の低い冷蔵庫が置いてある。そんな情景が思い浮かびます。浴場で体や髪の毛を洗う,湯船につかって温まる,理論的にはただそれだけの行為なのに,はるか昔から商売として成立していて,人々もそれを楽しみに暖簾をくぐる。そんな文化が銭湯です。そういえばテルマエ・ロマエという映画はそのような文化をうまく切り取った映画でした。まあともかくこの戦闘における一連の行動は自分を心地よくさせてくれるし,素敵だなあと思うわけです。

さて,話を戻します。映画のディテールを楽しむという記事でも述べた通り,物事の余白やディテールには様々な「エモい」が詰まっています。積極的な情報がないという情報から,いろいろな感情を自分勝手に感じることができるわけです。銭湯の話でいうと,たとえば,映画の中で,銭湯の引き戸を開ける音,おばちゃんから更衣室の鍵を受け取るシーン,ここまでそろえば銭湯に行って心地よくなるあの感覚を自分の中で思い出すことができます。というか僕はそういう考え方をする人間なわけです。これは実は人間の特権なのではないかと思っています。情報の周辺から,何かを思い出すこと。情報がないという情報から,何かを感じ取るということ。目の前にある数ビットの情報から,その何千倍ものビット数の情報処理を行うことができる。それが人間の頭の良さではないかと思うわけです。みなさんの目の前にあるコーヒーから,遠いアフリカのことに思いを馳せることもできるし,予備校で眠気と闘いながら勉強をがんばっている浪人生を思い浮かべることもできる。これは人間以外の動物には不可能なことなのかなと思います。

ちなみに僕は,固形石鹸を毎日使いながら,古き良き銭湯について考えています。ついでに,石鹸を初めて海で使った人のことを想像しています(石鹸を海で使うと石鹸カスがついて余計に汚くなるので,相当絶望したことでしょう)。固形石鹸の話からはかなり遠ざかってしまったけど,抽象的な話題というのは具体的なオブラートで包み込まないと表現しづらいものです。ただし,固形石鹸のほうが無駄遣いしづらくて経済的だ,という現実的な議論もしてみたいです。たぶん,現代ではみんな液体せっけんを使っていると思いますけどね。

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