見出し画像

バリアフリーは「善意」か?

ここ数日、伊是名夏子氏関連の記事ばかりチェックしている。一度記事を読むと類似の記事が関連記事として次々に表示されるから、仕事に追われていてもついついクリックしてしまう。

そして、記事を読めばそれなりに思考をめぐらせ、新たな着想も浮かんでくるから、私自身もこうしてブログ記事というかたちで発信したくなる。

伊是名夏子氏への批判はネット上でも依然としておさまる気配がないが、その中でも支配的なのが「障害者は社会の善意によって支えられている」という声だ。ここでいう「社会」とはつまり、健常者のことだと言ってもいいだろう。

そして、こうした言葉の後には必ずといっていいほど、「だからあなたたちは我慢していればいい」という批判がつづく。社会の善意や配慮によってバリアフリーも整えられているのだから、感謝をするのは当たり前である。

要するに、善意至上主義を掲げている人たちから見れば、公共交通機関や店舗のバリアフリーもすべて善意、ということになってしまうらしい。

結論から言おう。

バリアフリーは、善意ではない。

駅の構内がバリアフリー化されるのは決して善意ではない。ノンステップバスが導入されて車椅子ユーザーが導入されるのは同情ではない。バリアフリーがもしも善意でしかないのだとしたら、この国のノーマライゼーションはすでに終わっている。

冗談じゃない。

バリアフリーは善意ではなく、社会に必要不可欠なリソースである。障害の有無にかかわらずすべての人が平等に利用すべき、社会的インフラのはずである。

善意とは、ゆとりの産物だ。生きるか死ぬかの局面にかかわらず、それでもなお他者を思いやれる人間など稀である。安全が担保されているから、とりあえず危険はなさそうだからできる範囲でやさしくしよう。これが善意であり、ゆとりである。

バリアフリーがゆとりであるのなら、「障害者は本来不要な存在だ」という、障害者殺人の思想を受け入れることになってしまう。社会にゆとりがあるから、障害者は生きられる。では、社会にゆとりというものがなくなったら……?

バリアフリーは、善意であってはならない。そうした社会は一時的には理想郷になり得るかもしれないが、早晩限界がおとずれ、あっという間に瓦解する。善意を滅ぼすのは鮎喰ではない。まったく別の対象にむけられた善意である。

だからこそ、法律なのだ。善意という脆いものに頼るのではなく、理念や権利を土台にした法律を地道にこつこつと整備していくことでしか、本当の意味でのノーマライゼーションを達成することはできないのだ。

「本当にこわいのは、ふくれあがった民意だよ」

ドラマ「リーガル・ハイ」の主人公、古美門研介は法廷の場で語っている。民意を善意に置き換えても成立するだろう。

ただ、それでもなお、件の乗車拒否問題には、いくつかの疑問が残る。

伊是名夏子氏は、どこで何を間違えたのか。今後も、私なりに考えていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?