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根のはなし


        「根はいいやつなんだよね」という言葉を、受け入れられない。

  わたしは「あいつ根はいいやつなんだよ」を信用しない。もしかするともしかして、本当に「根はいいやつ」なのかもしれないけれど「根はいいやつ」というポジションに居座って開き直っているその精神性が信用できないのだ。

        本当の本当に「根がいいやつ」というのは、茎も葉っぱも、いいやつだと思う。根だけよくて他が腐っているなんてあんまり考えられない。自分は、そういう本当に「いいやつ」のいいところを、葉脈の隅々からきちんと見つけられる人間であると、買いかぶりかも知れないけれど、強く信じている。

  これは特定の個人に対してわたしが勝手に想像したところが大きい言説なんだけど、そこの誠実さを犠牲にしてしまうなら、公に発信する意味なんてひとつもないんじゃないかと思う。日記帳に書いていればいいし、少なくとも他人を啓蒙しようとする覚悟が足りない。わたしは信用できないし、しない。

   ASIAN KUNG-FU GENERATIONのヴォーカルの後藤正文さんがいつか(2017-05-10)ツイッターで言っていたことを引用しようとおもう。

俺は釣り記事みたいなのが好きじゃない。散々、見出しに使われている側っていうのもあるんだけれど。笑。そうしなきゃ読まれもしない、ってのは分かるような気もするけれど、書き方ってとても大事だと思います。内容がよければっていう人もいるけど、音色と同じように文体って大事なんです。どんな文体を選ぶのかってこと。スタイルは精神を表します。言葉づかいとか、強弱とか。そういうところは見過ごせないんです。文体を無視して、内容だけを褒めたりできない。何か書くってことは、文体を選ぶところから始まっていると思います。で、そこにほとんど現れちゃう。書くってことは怖いです。

         アジカンの後藤さんとわたしは、はっきり言って思想の面ではそんなに合わないと思う。政治や原発のことについて、わたしならそこまで思わない、そういうやり方は嫌だと感じることもしばしばだ。だけど、こういう怖さを知っている人のことは信用できると思う。聞くに足る話をする人だと思う。

         例えば、他意がなくても誰かを評価するときの語彙に「アスペ」という単語がある人をわたしは信用しない。入り口が閉じる、世界が違う。それは半ば問答無用の反応で、わたしは細部に全体を見てしまうし、そこを甘える人はそこまで、と思ってしまう。

        なんでもビュンビュン通り過ぎて行ってしまう世の中で、そのくせ目の前は常にたくさんのコンテンツで溢れかえっているけれど、わたし個人の実感として、いまいちばん重要なのは「信用」だ。この人が言うなら買ってみよう、試してみよう、聴いてみよう、観てみよう、読んでみようというものがたくさんある。 そして、これもまたわたし個人の実感として、若者に一番必要なのは「信用できる大人たち」だ。その中にはもちろん「自分」もふくまれていて、いまの自分は自分の信用に足る人間なのか? ということを、よく考える。

あとがき

これはさっき発掘した2017年のブログの下書きなんですが、20歳のわたしがけっこう真っ当なことを言っていてびっくりした。最近のわたしはずっと(差別問題などの)理想と現実の間にある飛び石のことを考えていて、だから「なんにも一概には言えないよぉ」みたいなヨワヨワな気分でいるし、その辺の折り合いはまだついていない。生きるか死ぬかの時に「言い方」がどうとか、そんな悠長なことは言っていられないのかもしれない。でも、そういうのを一旦置いておいて「自分がどういう風にありたいか」ということだけを考えると、20歳のわたしは何も間違っていないと思うし、むしろ励まされてしまった。昔の自分と文通しているような気分です。

 わたしが自分のテーマに「信用」を(自覚的に)据えたのは去年のことだったけど、そんなに前から抱えていた気持ちだったんだね。20歳のわたしが公開できなかった文章を、22歳のわたしは公開できるよ。なぜならあれから5万回考えたから。後藤さんが言った「書くってことは怖いです」の意味を、2年分、ちょっとずつだけど、ちゃんと分かったから。

おまけ

▶︎ブログ:移動祝祭日(全然更新していない)(19歳から21歳まで)

▶︎「信頼できる大人たち」について書いた映画コラム
思春期の錯乱 vs 信頼できる大人たち|『20センチュリー・ウーマン』

以下ちょっと引用

1997年生まれ、22歳。成人はしたけれど、大人かと言われると、自信は持てない。「エッッまだ全然無理ですけど」と半べそをかきながら「大人になってたまるか、ケッッ」とも舌を出しつつ、それでも「かっこいい大人になりたいなあ」などと夢見ている。
わたしにとって、大人になることはとても怖いことだった。9歳になったみたいに、17歳になったみたいに20歳になるだけなのに、それがどうしても恐ろしかった。何か取り返しのつかないことが起こっている気がした。でもどうしてか、大人になることを誰よりも恐れていたわたしに必要だったのは、「信頼できる大人」だった。

▶︎わたしにとっての「信頼できる大人」だった藤原基央さんについての連載
わたしがグジグジうだうだしていることは大抵すでに藤原基央が曲にしている

▶︎藤原基央さんのお誕生日に寄せた↑の連載予告


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