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怒りに心を奪われない

「怒り」とは

そもそも「怒り」とは何か

心理学者、ドルフ・ツィルマンが怒りのしくみについて述べている

「危険にさらされた」という意識が怒りを喚起する万人共通の要素であり、自尊心や名誉に対する抽象的な脅威も含まれる

『EQ 心の知能指数』p.99

仏教において「怒り」は「瞋恚(しんい)」といわれ、根本的な煩悩である「三毒」の一つとしている

「三毒」は「欲」「怒り」「愚痴」の感情を指すが、「怒り」は「三毒」の中で最も罪深い

まさに瞋恚を観ずべし、その咎最も深し。
三毒の中にこれより重きものなし。

龍樹菩薩『大智度論』

「怒り」は思考を奪い去り、数多の有意義な機会を滅ぼしている

「怒り」と個性

どんなことがあろうと怒らない人がいる
いや、怒っていないようにみえるだけで、内心はぷんぷんしているのかもしれないが

なんでイライラしないんですか?いつもおだやかなの?
私はこの手の質問に度々出くわす

そういった質問には、私もイライラしますよとかそれらしく否定するが
相手方はどうも腑に落ちないらしい

実際は怒るし、内心イライラもする
ただ、「怒り」を感じる閾値が高く、持続時間も短い
そのためイライラしないように見えるのかもしれない

怒りっぽい人は情熱的であると言い換えできる
とかくエネルギッシュで気合や根性を前面に押し出し
たまには頬も叩きますから!といった強烈な人相と涙涙のフィナーレ

現在ではそういった理想は隅に追いやられ、PDCAサイクルを着実に回し、論理的で冷静沈着なキャラクターが好まれる

「怒り」が個性として重宝される時代は一昔前のことになってしまった

現代は「怒り」をコントロールし、活用できる人材が重宝される

「怒り」のコントロール

ここでは自分自身の行動(怠惰や不摂生)や天変地異や病などに対する「怒り」は対象外とし、人との関わりで生じた好ましくない出来事に遭遇した場合について述べる

どんな思考が生じるか

まずは主観で出来事を捉えるだろう
なんて嫌なやつなんだとか、こんなに待たせやがってとか

「怒り」を感じるには正義と悪の関係が必要であり、
怒る側には個人の尺度や価値観が反映された大義名分が存在する
その大義名分に則り、従わない物達へ「怒り」の感情が噴出する

個人の価値観が無に等しかったり、相手に対する期待や興味が薄いと
そもそも大義名分を持たないため、「怒り」の感情は現れない

次は客観的に出来事を捉えるだろう
なんでこんなことをしたんだとか、何かがあったんだろうとか

ただ、客観的に捉えた出来事はあくまで補足的な扱いであり、
だからといって許すことはできないと、そう思ってしまうだろう

さて、ここから「怒り」をコントロールしていくわけだ

主観的な視点のままコントロールしようとすると「発散」が必要になる
いわゆるストレス解消行為である

運動や買い物、食事、旅行などで気分を紛らわせ
半ば「怒り」を忘れようとする
根本的な怒りのコントロールでは無い

「怒り」のコントロールには客観的な視点が必要である

相手や行為そのものに対して、動機や立場、環境を深く思考していく
必ず相手側の目線となることが重要だ

そうすると必ず、自己の尺度や価値観をもってしても、
それならば仕方ないと許すことのできるポイントがでてくるだろう

これこそが「怒り」をコントロールする本質である

人間には進化の過程で培った相手を慮る機能が本能的に備わっている
同情することで、相手を許すことができる
その機能を「怒り」のコントロールに活用するのだ

ちなみにこの客観的な思考では、ドラマチックな背景や、少々悲観的な内容を想像すると効果的だと感じる

動機や背景を面白おかしく婉曲してしまうのも良い
根本的な「怒り」のコントロールをぜひ実践してみてほしい

ビジネスに関わらず指導者や教師など、子供と関わる大人にはなんとしてでも習得してほしいと願うスキルである








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