そして、梅酒で乾杯を
物語を作って、と彼女が言い出したのはいつだったろう。
パソコンを開きながら考える。記憶を辿ったが思い出せない。
諦めて冷蔵庫から梅酒と炭酸水を取り出したところで、ふっとあの日のことが鮮明に蘇ってきた。
そうだ、サークルの飲み会だった。公演の準備はじめの景気付けだ。
・・・・・
なんの変哲もない演劇サークル。小さいながらきちんと公演を打てるだけの実力はあって、私はそこで演者と小道具作成をしていた。彼女は舞台には出ず、照明を担当したり公演全体のスケジュール管理をしたりしていた。
私はあまり呑めるたちではない。だから日頃の飲み会ではソフトドリンクだけで済ませるのだが、その日は珍しく梅酒のソーダ割りを飲んでいた。
「ね、あなた脚本を書く気はない?」
彼女は隣の席に来るなりそう尋ねた。同期だがそれほど親しくない私に。手には私と同じ、梅酒のソーダ割りが半分ほど入ったグラス。
「えっと、いきなり何を言っているのかな。人違いじゃ?」
彼女も私も酔っている。現に二人とも顔が赤い。だから彼女は話す相手を間違えているし、私も理解できなかった。そう思うことにした。ところが、彼女は至って真面目だったらしい。
「あなたの演技、照明の当て方が難しくて。役にストーリーがあるから、演出担当の指示通りに当てるとうざったくなる時があるの。演出側からしたらあなたの演技は内包するものがありすぎるって言いたくなるのかもしれないけれど、私は好き。だから、あなたに脚本を書かせたら違った世界が見えるんじゃないかなあって」
私は大学から演劇を始めたので、こうやって直接、作品とは別のところで評価を受けたのは初めてだった。
「なるほど。でも私脚本どころか小説の類も書いたことないよ?」
「じゃあ作ってよ。あなたの物語」
彼女の口調はやけに熱っぽくて、からみつく。思わず水を口に含んだが、逃れられない響き。
「気が向いたらね」
その時はそう言って話を終わらせた。顔の前にグラスを掲げながら。
その公演は無事に終わった。すごく評判が良かったわけではなくても、満足のいく出来だった。私も端役をもらって、登場人物の生き様を吸い込み、表現していた。私だけにスポットライトが当たることはなかった。
公演が終わってしばらくしてから、彼女からメッセージが届いた。
『書かないの?』
夏公演のための脚本のコンペがもうすぐ行われる。私は彼女に言われるまで書こうとも思っていなかった。気づいたら、メッセージの文字がゆらゆらと揺れて、渦を巻いていた。
『できるかわからない』
それだけ打って、とりあえずパソコンを開く。ふっとあのメッセージがセリフとなって、映像が浮かんだ。イメージをこぼさないように、必死で文字にしていく。
ふと顔を上げると朝で、目の前の画面にはあらすじのようなものができていた。肩が強張っていて、頭痛がする。でも気分は良かった。
お湯を沸かして紅茶を淹れた。飲みながらゆっくりと読み返す。脚本に発展できるかもしれない。スマホを見ると彼女から返事が届いていた。
『あなたならできると思っている
楽しみにしてるね』
初めて書いたあの脚本はコンペで負けた。負けたとわかった時、彼女は私をご飯に連れて行ってくれた。そして、赤いボールペンで改善案を、青いボールペンでコメントを、几帳面な字でビッチリと書き込んだ私の作品を渡してくれた。
「あなたが芽吹かせてくれた物語の種に」
彼女はアイスコーヒーのグラスを目の高さに持ってくる。私も彼女にならって同じ動きをした。グラスを合わせたときに氷が鳴ったのを覚えている。
脚本を書いたのはあれが最初で最後だ。
・・・・・
回想の渦に飲み込まれている間に、約束の時間が来ていた。慌ててパソコンのアプリを開く。ややあって、画面には彼女の顔が映った。
「久しぶり、元気だった?」
大学卒業以来疎遠になっていたが、ふと思い出して私からメッセージを送ったのだった。すぐに返事が来て、今こうやって画面越しに話をしている。彼女は大手インテリアメーカーで社員のスケジュール管理を担当しているのだという。
「元気だよ。さっきまで初めて物書きになった時のこと、思い出してた」
「いつだっけ」
「5年前の夏、コンペの時」
彼女は細身のグラスを弄ぶ。色味的に向こうも梅酒だ。
「ああ、覚えてる。私が一番最初にあなたの物語のファンになったもの」
あの時と同じ、熱を帯びた口調。私は苦笑いして梅酒を味わう。今日もソーダ割り。あれから、少しお酒に強くなった。
「あの作品は『脚本』としては負けたけど『物語』としては強かった。あなたには物語る才能があると確信したのよ」
「昔の話だよ、今はイベントの企画書を書くだけ。私に才能があるって言ってくれたのあなたくらいだし、自分に才能がないのはわかっているから物語はもう書いてない」
「嘘つき、覆面ペンネームで今も書いてるでしょ」
彼女の穏やかな笑みを映して画面が止まる。部屋の温度が下がった気がした。
そう、あの出来事をきっかけに、私は本業の傍らで脚本ではなく小説を書くようになっていた。彼女とのやりとりが私に物語を作る楽しさを教えてくれたから。売れてもいないし誰にも言っていなかったはずなのに。
「……どうしてそう思ったの?」
「ストーリーも、文体も、全部あなたのものでしょ。伊達にファンじゃない」
「……黙秘します」
「なーんてね、確信したのはさっきの『物書き』って言葉。最初に声かけた時、脚本と小説を並列してたでしょ。で、私たちの間では『物語』が基本。それなのに、あなたはどっちも使わなかった。隠さなきゃいけないと意識しすぎたんじゃない?」
ぎこちない笑みを浮かべた私に、彼女は満足げに頷く。いつの間にか止まっていた画面はスムーズに動くようになっていた。
「大丈夫、これは私たちだけの秘密よ」
婉然と彼女は微笑む。私は思わず頭を振った。どうやっても敵わない。それを見てか、彼女はスッとグラスを持った。私もグラスを手にする。
「そっちも梅酒?」
「そう、ソーダ割り」
「お揃いだね、最初に声をかけてもらった時と同じ」
「そうだっけ?」
「そうだよ、覚えてないかあ」
沈黙。目を合わせるでもなく同時に頷いた。改めて目の前にグラスを掲げる。
「では、物語を花開かせる人たちに」
この乾杯に音はない。例えこれがどこかの店であっても。そもそも音なんていらない。だってこれは、二人だけにしか伝わらないお互いへの祝福なのだから。
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