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自分の文体で書いただけ

こんばんは。今日は文章のスタイルについて。

先日、「人を見捨てない文章を書くね」というコメントをもらいました。読んでいる人を置いてけぼりにしない、ちゃんとわかってもらえるような文章だと。

実は、特定の読者を意識して書いている訳ではありませんでした。読んでくれる人にこういう知識を持っていて欲しいとか、こういう背景を持つ人に読んで欲しいとか、そういうことを全く考えずに文字を並べています。

あるとすれば、考えていることを文字にするという行為自体が一種の客観性を付与しているのかもしれないなと思います。私は日記を続けたことがない(学校で出される一行日記は苦行でしかありませんでした)ですし、noteで記事にする以外は考えたことを文字に起こしません。頭の中で、自分と聞き手になりそうな別の誰か(別の自分でないことがポイント)とを作って対話することによって思考を整理するタイプです。

そしてもう一つあるとするならば、文章を書きながら推敲していることに由来するような気がします。考えたことにクッションを置くことができるからです。以前「敬体と常体」という記事で、敬体の方がフワフワしていると書いていましたがその通りで、柔らかくできるんです。だから、ですます調を採用することで文章を読み直しやすくなり、自分の考えそのままよりも言葉を選びます。この記事を書いた当初は、敬体は読者を意識していると思っていたようですが、敬体で文章を書き慣れてしまうと読者を意識しているとも言えなくなってきました。

自分の考えを客観的に整理しようとする時、特にそれを箇条書きではなく文章の形でまとめようとする時、私の場合必然的に説明のための言葉を足します。周りから見ると冗長にも思えるほどの言葉が並べられていくんです。

それが読みやすい文章かと言われると、よくわかりません。自分が好むのはちょっとかための文体で、記事を公開してから読み返すということを滅多にしないからです。ある人には柔らかい言葉遣いの文章が読みやすく、ある人には言葉少なく何かを鋭く指摘するような文章が読みやすい。

授業の演習でいろいろな作家の小説を読み、図書館で本を借り、noteで他の人の記事を読みます。それぞれに独特な文体があります。文体というか文章のスタイルと言ってもいいかもしれません。私自身にも好みがあるように、毎日膨大な数の新着記事が投稿されるこのnoteという場にいる読者さんにも好みがあるでしょう。

そういう意味で、私の書くnoteは読みにくくも読みやすくもなります。説明的な文章が続くと離脱してしまう人もいるかもしれませんし、逆に説明されることによって理解しやすくなる人もいるでしょう。

結局のところ、私は自分の書きやすいスタイルを選んで、書けるトピックについて書いているだけです。これからもきっとそうだと思います。


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