今日の私は、正直に生きることを深めた
10,505日目
ここ最近、正直に生きることについて考えていた。
複数の友人と話す中で、少し自分の中で言語化できてきたのでまとめてみる。
分人という考え
友人がおすすめしてくれた1冊。
個というものが叫ばれる時代において、生きやすくなるためのヒントとして「分人主義」を提唱している。
個人はひとつだと思われているけれど、家族や友人、上司、恋人それぞれとコミュニケーションするときには違う顔でキャラクターを使い分けている。それをこの本では「分人」と呼んでいる。
人は、自分の中の複数の分人の構成比率を使い分けて生きている。
言われてみると、私も無意識のうちに分人を使い分けている。意識的ではなく無意識にしてしまっている。
この人といる自分はなんでだか居心地が悪いな、自然に正直にふるまっているとつもりなのに...という葛藤が生じていたのだが、分人という考え方によって言語化されて少しすっきりした。
正直じゃない感覚なのも仕方がないことなのか。
フィルター
別の友人と話していたとき。
私がこの数か月考え続けている途中段階の将来の目標について語った。
私にとっては、考え続けている中での今見えるビジョンだったから、まだ確信ではなく、少し探りながら淡々とこう生きようと思っているのだ、話していた。
気が付くと友人が目に溢れだしそうなほどの涙を溜めていた。
「えーなんで」と私は笑いながらも、いつの間にか涙が溢れそうになった。
私はそのとき気が付いた。自分が強いインパクトを与えていることに。
したことは、本心を何のフィルターもなく、その友人に伝えただけ。
「この人にこれを言ったら、どんな反応するかな」「こんな風に思われたらどうしよう」って微塵も思わなかった。
そして、彼女もそのまんまフィルターなしに、そしてジャッジせずに受け取ってくれた。そんな反応だった。
「まるで、鏡だね」と話をした。
フィルターなしで出して受け止め、そのまま反映する関係性。だからこそ、自分がのインパクトに気付くことができる。
「こんなに覚悟決まっていたんだ、私。」と、知った。
迷いが確信に変わる瞬間だった。
フィルターがない状態。「会社員である私」「真ん中っ子の私」「初対面の人といる私」。そういう「○○である」というラベルや修飾語、条件がない状態ということ。
私そのもの、「個」に限りなく近い。
分人の考え方に合わせると、私の持つ分人がほとんどすべて集合した「個」であったということ。
そんな友人がいることが心の底からありがたく思える。
正直に生きる
「分人」と「フィルター」
正直さを考える上で知ったり、出てきた考え方だけれど、どちらも私の中では近しいものがある。正直に生きることを考えるヒントとなった。
正直に生きるというのは、「個」で生きることなのだと考えている。
一方で、どこに行っても、何を選択しても、コミュニケーションというのは付いてまわり、「分人の集合体」や「フィルターレス」という「個」状態に常にいられるというのはないこともわかる。
だからこそ、「正直に生きる=個」をなるべく保てるような選択をし続けることに意識的になろうかなと感じている。
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