今日の私は、等身大からありのままへ
10,857日目
等身大で生きる、その言葉を使ってきた。
着飾りたくないし、私は私以上の何者でもないと思っているから。
コーチから、私自身が等身大に縛られていないかという問いかけをもらってハッとした。
ちょっと背伸びしてしまうことが悪いことだと決めつけていたからだ。
私が少し苦手だなと思う、距離を取ってしまう場所のひとつに、大勢の集まりがある。それも(感覚的なのだけれど)カジュアルではなくちょっとフォーマルな、人のキラキラしたエネルギーが強い場所である。
「初めまして」を繰り返したり、「こういうことをしている」と最近のことを話したり…何か場に合わせて自分をアピールしなくてはいけない心地になってしまう。無意識に背伸びをしてしまって、疲れて帰ってくるというのが度々ある。
どんな場でも背伸びをせずに、ある意味空気を読まずに自分を貫き通せる人でありたいという、空想の等身大の自分になれないからそんな自分が許せていなかった。
ちょっと背伸びしてしまう私は等身大ではないのか?
問いに立ち止まった。
意識せずに背伸びをしている…もしかするとこれも等身大なのかもしれない、と。
空想の等身大はいつも地に足を付けて、全身タイツのようにぴったりとそのままの私を表現することを意味していた。
背伸びをすると破けてしまうような、ピンとしたもの。ジャストフィット。
たしかに縛られてしまっている。ちょっと息苦しささえ感じる。
私がしたいのは、背伸びをする自分さえも認めてあげることではなかったか?
等身大という言葉が先走ってしまい、本来の自分を認めてあげたい、ありのままを良しとしたいという本来の目的からずれが生じてしまっていたのだ。
ルースフィットでいいじゃない?
等身大という言葉を使うと、私の生き写しみたいな形の全身タイツをイメージしてしまう。
多少背伸びしたって、がんばっちゃったって、ありのままの自分としてよしとしてあげる。
ルースフィットでいたい。
等身大という言葉は一旦使用を中断しようと思う。
ありのまま。その方が少し余裕のある自分の感じ。
時々言葉のイメージが先行してしまうときがあるんだと改めて気が付いた。
そもそもどういう状態でいたかったのか、というところを思い出すのは大切だなぁ、としみじみ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?