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今日の私は、愛情のカタチを考える

11,316日目

友人と話す中で見つかってきた言葉。

愛情のカタチについて。

愛はカタチを変えて出現してくる。

「願い」と「支配」

大きく二つのカタチがあるのではないかと思っている。


「願い」

例えば、パートナーがまめに連絡してくれたらうれしいな、という思い。
例えば、娘にもっと賢くなってこの大学に行ってほしいな、という思い。
例えば、息子夫婦に早く孫ができてほしいな、という思い。

願いを持つことは自由。ひとつの思想だと思う。
きっとそれぞれの立場で他人に期待すること、そしてそれが”きっとお互いの幸せに繋がる”という愛情が「願い」という形で出現してきているのだ。

「支配」

例えば、パートナーが連絡をしてくれなくて悪い人だと決めつけること。
例えば、娘の成績が悪いからと強制的に塾に行かせること。
例えば、息子夫婦が子供を持つべきだと言い続けること。

支配はべき論に基づいて、それを押し付けること。
”お互いの幸せに繋がる”という願いが強くなり、正解はこれだという概念を作り、他人の考えを排除して強制しようとする愛情は「支配」になる。


願いは他人を犠牲にしない。
支配は他人を犠牲にする。

願いは、もし二人が相反しても両立する。
支配は、もし二人が相反すると対立する。

私は思う。
人生において、支配していいのは自分自身の人生だけなのではないだろうか。

もし、自身がした選択が失敗という結果に陥ったとき(何を以て失敗とするかは別として)、誰が一体責任を取れるのだろうか。


すごくやっかいなのは、相手にとっていいことだと思っているからこそ、愛情が支配となって動きだしていることに気が付きにくい。

当たり前のように小さいものは出てきてしまう。
私自身、「これおいしいから絶対食べた方がいいよ!」と言ってしまったとき、あれ?と思う。
食べるかどうか決めるのも、おいしいか決めるのも、他人なのに押し付けていないか、と。

危険ワードは「絶対」。

愛情のカタチを思いをはき違えないようにしたい。




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