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小さな話24 #3phobias

私は恐怖症と呼ばれるものを三つ持っている。
ひとつ、集合体恐怖症
ひとつ、先端恐怖症
ひとつ、髭のある人恐怖症

最初のふたつは一般的に知られているものだと思うし、共感してくれる人も多いのではないだろうか。集合体恐怖症は、たくさんの穴や点を見ると気分が悪くなるもので、先端恐怖症は、その名の通り先端の尖ったものを見たときに恐怖を感じるものだ。きっかけははっきりとしていないが、たぶん幼稚園のときに蟻塚を覗いたときに無数に這い出てきた蟻が怖かったのと、注射に対して極端に嫌な思いがあるからだ。それらを見てしまうと得体の知れない、足が生えた生き物が身体を這うような、気持ち悪さを感じる。酷いときは目眩もするし、シャワーを浴びないと解決しないときもある。「恐怖症」と名前が付いたことで避けることもできるけど、それでも日常の中でエンカウントしてしまうことはある。夜でもサングラスをかけたくなる気持ちもわかってほしい。

そして、最後のひとつはあまり聞き覚えがないだろうと思う。私も私以外にこういったものに恐怖を覚える人に出会ったことがない。私はどうしてか、「髭」がダメなのだ。どの程度の髭なのかというと、三日以上剃っていないような無精髭でもダメなのだ。どんなに顔のパーツが整っていようと、髭だけがあってしまうとダメなのだ。極端な例だと、サンタクロースも好きではない。もはやあの髭は髪の毛と同化しているのではないかと思うために、嫌いではないレベル。まあ、無精髭が一番嫌いなのだろう。
こうなってしまったのは明確な理由があり、原因がいる。他のふたつに比べてこれは最近発症したものだから、その記憶も最悪なことに鮮明だ。
いい機会だから少しだけ話していきたいと思う。

まず、結論から述べるとこれは自分の父親が原因なのだ。
今年で生きていれば60歳になっていたであろう奴は、私が12歳、奴が48歳のときに亡くなった。交通事故だったが、自身の飲酒運転が原因だ。自業自得と言われてもおかしくないし、相手に関しては本当に災難だったろう。
酒癖が悪く、気分屋で、見栄ばかり気にして、権力者には頭を下げて。ある種、典型的な日本の親父なのかもしれないけど、そんなことを言ったら怒られそうだけど。生前からそもそも父親に尊敬の念を抱いことは愚か、好意すら抱いていない。「働いてやってるんだ」という態度がどうしても嫌いだったし、家の中に増えていく空き缶を踏んだり捨てに行くのが面倒だった。
母は看護師として夜勤が多く、そうなると奴の相手をするのは家にいる私と猫の仁郎になる。母は逃げていたのかもしれないと気づいたのは最近だ。「来年はもう少し墓参りを減らそうかね。」と私に呟くように宣言したその手は小さく皺だらけで頼りなかった。

そんな父だが厄介なことに死んだ後、未練たらたらでしばらく現世に止まっていたのだ。その年数、実に4年。私は霊感があるわけではない。それでも父の霊を信じざるを得なくなったのはいくつか不可解な現象が起きていたからだ。それは家のものがなくなっていたり、猫の仁郎が納屋に閉じ込められていたり、そういった怪奇現象が主だった。

一番気持ちが悪かったのが、ときどき頬にざらりとした感覚を覚えることだ。

父が亡くなって一週間後。和室で布団を敷いて寝ていた私は翌朝頬にざらりとした感覚で起きた。そのときは畳か、布団のせいにしたのだが、その感覚は若干の温もりと共にこびりついた。柔軟剤を入れて布団を洗濯してほしいと母に懇願したのは今でも覚えている。
二度目は、中学生になったときだ。昼食を食べ終わって、満腹感からくる眠気を持て余していると、また頬に同じようなざらりとした感触があった。思わず飛び起きると机を倒してしまい、クラス中の視線を独り占めしてしまった。青くなった私を心配した教師と友人らに詫びを入れると、顔を洗いにトイレへ向かった。何の跡も残されていない、ニキビの少し残る青年期の頬は洗いすぎで照れたように赤くなってしまった。
いよいよおかしいと気づいたのは三度目。受験期に家で勉強をしていると、今度はすっかり起きているにも関わらずぞわり、ざらりと、確実に撫でるように感覚が消えた。猫の舌で舐められているような、それにしてはやけに広い感触は、気持ちが悪いという感情にしかさせてくれない。仁郎を横抱きに私は眠りに付いた。仁郎は珍しくにゃーにゃーと呟いていたが、私は必死に彼が魔除けになるかのように縋り付いていた。

こうした思い込みや感覚は幼少期の思い出がトリガーになると聞き、幼少期のアルバムを眺めていて私はハッとした。同時に言葉に出せぬほどの気持ち悪さで呼吸が下手になった。大して好きでもない父は、私と写真を撮るときだけ、剃り残した髭を私の汚れなき頬に押し付けているのだ。
何のつもりだと泣きたくなった。怒りしかなかった。
そこに、父に対しての、情の念など、一欠片もあるはずがないだろうに。
今更なんだというのだ。死んだことに対して悲しんでほしいのだろうか。生きているときのことを忘れたのか。それとも、私が貴様が生きている頃の楽しい思い出を持っているとでも思っているのか。幽霊とはいかに身勝手なものなのかを日々感じざるを得なかった。

父の幽霊がいることが怖いのではない。
父が勘違いしたまま、この世に未練がましく、文字通り縋っていることが怖い。

気持ちの悪い「髭」が現れて10年。ようやく消えたという感覚があった。

朝起きると部屋に差し込む光がきらきらと粒子を纏っていた。仁郎のあとに迷い込んだ三郎が機嫌良く私の足に擦り寄った。空気が心地よく肺に流れてきた。

ああ。やっと解放された。

そう思ったのに。

家を最高の気分で飛び出し、会社へ向かうバスへ乗り込んだときに目の前に「髭」の生えた中年の男が立っていた。私は思わず叫び声をあげたくなったが、鞄を力一杯握ることで我慢した。消えたはずのあの「髭」の感覚を思い出してしまったのだ。

それから、父が消えたのに、「髭」だけが私を苦しめる。
肌の感覚というのはなかなか消えてくれない。
髭のある人を見るとどうしても気分が悪くなり、化粧が落ち、肌が荒れるまで洗顔を繰り返してしまう。

呪いだ。忌々しいあいつの残した呪いだ。

恐怖症と名付けてしまえば簡単な、それでも私を蝕む、呪い。

今日も私は車を運転し、なるべく人の顔を見ないようにして生きている。すっかり猫背になった背中には何かがとり憑いたように曲がって、このまま老いていくのだろうと確信もしている。


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