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“マチネの終わりに”を読んで

読書感想文なんて、中学生以来かもしれない。思えば昔から、書くというプロセスは、考えて考えてゆっくりと進めることができるから好きだったし、読書は子供の頃、身の回りのほとんどの事に飽きていた私に逃げ道を作ってくれていたから、宿題の中で唯一進んでやったのが、読書感想文だった。人から課題として与えられる事のほとんどを嫌っていたのに、いざ義務でなくなると好きなのにすっかりやらなくなってしまうのは、悲しい事だったのかもしれない。

さて、7ヶ月ぶりに読んだ選ばれし日本語の小説、マチネの終わりに。数年前から書店で見かけるたびに、そのタイトルのエレガントさに惹かれていたけれど、やれフィッツジェラルドだ、シェイクスピアだと洒落たフリして英米文学にかぶれていたら、すっかり読む機会を逃していた。それでも、さすがにこの夏あたりから著しい日本語力の低下を感じて、積極的に日本語を読もうキャンペーン第一弾として選ばれたのが、このマチネの終わりにだった。平野哲一郎さんという方によるこのストーリー、まるでフィクションとは思えないようなリアルな感情描写、日本語に触れたいなんていう低俗な目的で読んでしまったのが恥ずかしくなるくらい、すぐにその世界観にのめり込んだ。

主人公の蒔野と洋子の大人のラブストーリー。そんなチープな一言では形容できない、すれ違いにすれ違った2人の物語。2人とも40代という人生の大きな節目の周りで、しかしまだ自分を探りながら生きていて、そんな中の、神様もびっくりな運命的な出会い。蒔野のコンサートの夜、関係者のプラスワンで客席にいた洋子と偶然知り合い、お互いの容姿だけでなく、その言動や思考に惹かれ合うも、蒔野は洋子をあっさりタクシーに乗せて帰す。この時点で、まだ22歳の私には到底理解できなかったし、”何やってるの大人のくせに”という気持ちが頭から離れなかった。自分に置き換えて考えて欲しい。40歳を目前にして、独身。しかし、一生1人でいたいわけではないと考えているときに突然湧いてきた空前の大チャンス。朝帰りを咎める親もいなければ、浮気だとヒステリックになる恋人もいない。それなのに、なぜあの夜、2人はタクシーの窓越しに見つめ合い、別れたのか。その真相はわからない。ただ、一つ言えるのは、この始まり方こそが、彼らの関係のシンボルだったのだろう。基本的に蒔野と洋子の5年以上に及ぶすれ違いは”what if”、すなわち存在したかもしれない別の未来を考えずにはいられない構図になっている。この夜のイタリアンレストランでの出来事は、出来事と言うより大人の会話と言った方が適切かもしれないが、長すぎる勘違いによる、葛藤にも近い2人の物語の始まりに過ぎなかったのだ。

さて、2人のうっとりするくらいロマンチックでドラマチック、でも静かなストーリーはいくら語っても到底平野氏には及ばないので、ここではあまり言及しないことにする。ここでは、私がこの本を読んでいて感じた圧倒的な嫌悪感について少しお話しさせていただきたい。全ての元凶であり、ずる賢く蒔野の妻となった早苗。何を隠そう、私はこの類の女には、今すぐ滅んでほしいと思っている。容姿人並み、能力人並み、一生懸命だけが取り柄です。そんな何食わぬ正義面して生きているくせに、内心でふつふつと劣等感を育みながら生きている。もちろん、嫉妬したり他人と比べたりするのは個人の自由だから、大いに構わないのだけれど、そこに過大解釈を加えて、恵まれた人、優れた人と認定した人から少しくらい何かを奪っても構わないだろうと思い込む。自分が”映画の主役”にはならないからって、その主役になりうる人への劣等感を爆発させる。そして、陰謀を企て、なりすましメールを送り、2人の約5年間のすれ違いを意図的に作り出し、自分は傷心の蒔野につけ込み平然と結婚、妊娠までする。まるでシェイクスピアの悲劇に出てきそうなこんな女に対して、”でも気持ちは分かる”などと自称負け犬の同情をする女とも、残念ながら仲良くはなれない。自分だけが、恵まれない、不幸だ、あの人たちには何も悩みはないなんて思い上がりは、勝手にレッテル貼られる方からしてみたら、迷惑極まりない話だから。

“自分はこれまでの真面目な人生の中で、それほどの罪は犯していないはずだった。....この先ずっと、人並み以上に善良に生き続けるのであるならば、あのたった一つの罪にも、目を瞑ってもらえるのではあるまいか?”(マチネの終わりに: p.347)

こんな破茶滅茶な理論が通るわけがない。自分が一方的に彼を愛し、報われないからと言って、なんの罪もない2人を引き離す権利はどこにもない。まるで体育の授業は3回サボっても単位もらえるよねみたいな思考で、自分の罪を正当化するのは、いささか子供じみている。

人にはそれぞれ悩みがある。でもそのベクトルが180度違う方向に真っ直ぐに伸びていると、反対側からそのベクトルは見えない。さらに相手が自分にはないもの、決してこれからも手にすることがないものを持っていると、そこに劣等感が生まれる。

私は案外、世の中はフェアだと思っている。周りからの羨望の眼差しに囲まれて過ごしているセレブや著名人にも彼らだからこその計り知れないような悩みがあり、ありふれた人混みから一人一人をピックアップしても、十人十色の苦しみがあると思う。それを上っ面だけで解釈して、嫉妬に苦しむのをやめたとき、私たちの世界は変わるのではないだろうか?古今東西、劣等感とか嫉妬に苦しめられてきた長い人類の歴史を考えると、そんな日は残念ながら来ないことは明らかだが。

#読書感想文 #マチネの終わりに

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