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憐野(Reno)と保乃実(Honomi)

ep.1 - 憐野

眩しい。
目を閉じて昼下がりの太陽を見る。
今日も天気が良さそうだ。
光が強いせいで薄赤い色の、
まるで熟しきれていないリンゴの一部分のような色味が私の目を覆い尽した。
今日も静かに本をめくる。
内容はよくわからない。
ただただ、目だけが文章をつらつらと
読み進めている。ああ、私は今日も寝ていた。
いや、今日もと思うくらいゆったりと寝てしまったのだ。そう感じるだけの人生が、ほんの一日だけ。この何とも言えないさみしさに、
目だけが私を追い越してゆく。

「憐野、今から本買ってくる。
遅くなるけど心配しなくていいよ。」
そう置き手紙を残した保乃実。
彼女はまだ帰ってこない。
死んでしまったのだろうか。
そう思いながらも私は眠ってしまった。
もしかして、
私からの連絡を待っているのだろうか。
彼女は本屋で好きな本を買って読んだ後、
その本を私宛にポストへ入れながら笑って、
近くにあった川にでも
飛び込んだのかもしれない。

おそろしい。
女とはなんて、おそろしいんだろう。

文章を読み進める目の動きが活発になって、
少しずつ視界がぼやけ始めた。
まばたきの数も増えている。
これは、恐怖からか、さみしさからか。
私の感情は今、
どちらかと言えば恐怖のように思える。
一つだけわかっているのは、
左手で持った本を読もうとしている。
この事実だけだ。
これだけで私はなんとか冷静さを保っている。
落ち着け。保乃実は生きているよ。
ただ少しだけ、君は好きな本を真剣に探して。
ああ、きっと一度帰宅したんだ。
ゆったりと眠る、無褒美な私の横顔に微笑む。
疲れた身体をソファに任せて眠り、
今朝早々に本屋に戻っていった。
きっと、そういうことなんだろう。
保乃実。

気付いたらもう、
保乃実と最後に会った時間になってしまった。
私は、起きたばかりの、
深い眠りから覚めたような気だるさに
ため息をついた。
保乃実、どうして帰ってこないんだろう。
LINEは既読にならない。
いや、よく考えたら、
彼女のスマホは私にとって、
いつも半日ほど機能していないようなものだ。
私とのやり取りなんて、
仕事や他の通知で埋め尽くされて、
下の下、下へ下へと消えてしまっていることだろう。

そういうことなんだろう。

私は、再び手元にあった本のページをめくる。
めくる。と同時に、
保乃実が本を読んでいる時を思い出している。
彼女はいつも本を一冊手に取って、
くるっと一周させる。
そうやって本を器用にまわしてから
椅子にゆっくりと腰をかけて。
彼女の場合、ページをめくるというより、
ページを送るというのだろう。
チッチッチッチと小気味良い音を鳴らしながら、
私の3倍ほどのペースで一冊を読み進めていく。
自分でも気が付かない間に、
彼女の、本を読みたいという正直な感情が、
こころをときめかせてやまないのだ。

私は、全く読むことの出来なかった本を
ゆっくりと閉じる。
自由にして良いと言ったのは、私だ。
何をしに行くかだけ教えてくれれば、
どこに行ったっていいと言ったのは、私だ。
それを考えたら、
本買ってくるとは書いてあったけど、
どこまで行くかは書いていなかったな。
きっと本屋に行ったら行きたいところに
行きたくなったのだろう。
私はすっかり忘れていた。
最近一緒に本屋で立ち読みをした時、
保乃実は、
「本を見ると旅がしたくなるの。
ストーリーが浮かんで、時々異常なほど。
ええ、旅って楽しいよね。
何もかもを置き去りにしても行きたい場所に。
憐野、何であっても
本当のところ、温かさや冷たさっていうのは、
実際触れないとわからないものよ。
もし、行きたい場所に行くことが怖かったら、
思い出して。いつか見たり、聞いたりした記憶を。それがきっと背中を押してくれるわ。」
保乃実はそう言って一つの雑誌を手に取った。
海際に横たわる褐色の肌の男の子たちが、こちらを向いて笑いかけている。
その可愛らしい笑顔は。
カメラや写真家への興味に満ちていて。
保乃実もまた、
子供たちと触れ合っているかのような
優しい瞳で笑いかけていた。

私は本を見つめて、ゆっくりと開く。
保乃実。文章の連なりが、
今なら、ちゃんと読めているよ。
わたしはもう少しここにいるから。
大好きな本を手に入れて、
喜びに満ちた君の笑顔を想って。

fin.

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