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会話。

「・・・どっちのわたしが本当でしょうか?」

彼女は、天秤の皿のように手の平を上に見せ、
僕の方に向けてさよならと手を振るしぐさをした。
今その手は、彼女の足を組んでより際立つ膝の骨を、
コンコンと叩いている。
彼女の微笑み。
僕がゾクッとしたのは恐怖ではない。
むしろ、この彼女に今すぐ触れて、
その口を黙らせてやりたいとさえ思わせる感情が
僕を満たしている。
彼女を見ると、どこにいてもあの時の、
と思い出せるほど、何故だろう。
時々少年のように目を輝かせるせいだろうか。
仕草も出で立ちも全てが女性のはずなのに。

「きいてた?
家族の中にいるときのわたしと、
今ここにいるわたしよ。」
彼女はさっきの体勢から何も変わらないままだ。
どのくらい時間が経っていたのだろう。
ほんの少しの苛立ちが伝わってくる。
だからと言って、
彼女は癇癪を起こすタイプではないだろう。
天秤の上に乗ってくる僕の反応を
楽しんでいるようにも見える。

「なんで僕に訊くんだ、今日初めて会ったのに。」
僕は新しい酒を注文しながら、
グラスをバーカウンターのテーブルの奥に置いた。
そのグラスを見ながら彼女は言う。
「人ってほとんど第一印象で見定められてると思うの。
家族はわたしの記憶の無い日から知っていて、
どんなことがあっても子供なんだから、
良いようにしか言ってくれない。
それに、大体どんな場所で遊んでるとか、
どんな人と友達かなんて知らないのよ。
どんな仕事してたかだって言えないこともあるでしょう。
だから、あなたにきいてるのよ。
外れなんて無いわ。
どっちもわたしなんだから。
あなたの好きな方を選んでくれればいい。」
右側に座る彼女の方へ体を向けて僕は言う。
「僕は、君が家族の幸せを望んでいるのであれば、
それが君の幸せだと思う。
今ここに座っている君はさみしげだけど、そうじゃない。
誰かに選択肢を与える人間こそ芯が強いんだ。
どっちを選んでも怒らないなんて、
僕を弄んでいるようにしか見えないよ。
僕がこんな質問で容易く迷うだなんて
思っていないんだろう?
家族の中に居ても、ここにいても、
君はちゃんと存在している。
愛を知らずに居場所を求めている
悲観的な人には見えない。」

彼女はどす黒い色のワインを一気飲みして、
軽いものをと注文する。
「思った通り、饒舌ね。
その口を黙らせてみようかと思ったんだけど、
私の負けよ。」
僕と彼女のところに2杯目の酒がきて、
僕はグラスを軽く持ち上げて乾杯する。
「勝ち負けなんて初めから無いだろう。
いいおしゃべりが出来た。それだけのことだ。」
片手をひらひら動かしてみせる。
いいおしゃべりにしては少々困らせたわね。
と、彼女は顔を背けて言った。
泣いているのだろうか、
それとも多少の反省をしているのだろうか。

「わたしが育ったところには、何でもあった。
スーパーも、洋服も、食べ物も、
医者だってあらゆる分野があるし、
大きい病院だってすぐそこよ。
モールだらけで、多少公園だってあるし。
高校に行ったら、バンド組んだり、
ダンスしたりしたかったけどね。
でも、わたし日焼けで真っ黒だったし、
第一うちの学校にそういう場所が無かったの。
白くておしゃれしてる子が羨ましかったわ。
受験の時は家庭的にも色々あってね。
その後体調崩して入院もして卒業はギリギリだったけど、
大学に行くのを理由に家を出られたのはよかったと思う。
お陰で都会の楽しさもゆったりした故郷のことも、
愛せるようになったから。」
彼女は早口にそう話してから、
これからどこに行くかだけ、決まってないけどね、
と小さく呟く。
青々としたカクテルを一口飲んだその彼女の横顔を、
僕は炭酸で爽やかに香る白州をクっと飲みながら見た。
彼女の口元は笑っている。
僕は彼女が泣いていなかったことを確信して安堵した。
第一印象通り、
悲しい物語で笑い話が出来るだけの
大人だということを知ることができた。

22時、多少早いが、
このまま話し込むと僕の気持ちが持ちそうにない。
僕は手でチェックを促してから彼女に言う。
「そろそろ時間だ。いい夜になったよ、
おかげでぐっすり眠れそうだ。」
彼女は、そうね、わたしもあなたと話せて楽しかったわ。
場所が無くて、
空いてたカウンター席に座っただけだったんだけど。
と、さっきまで組んでいた足をしっかり正して、
ありがとうとにっこり微笑んだ。
どうやら、彼女はまだ席を立たないようだ。
勝ち負けは無いと言った反面、
一緒にここから出られないことだけは、
負けた気分になってしまった。
会計が終わり、
僕は今日一日の仕事でほとんど手を通していない、
焦茶の麻ジャケットを羽織る。
すると彼女は、
「じゃあ、最後にハグだけしてってくれない?」
と、少女のように甘えた声で言った。
彼女から頼み事をされるなんて思わなかった僕は、
このまま彼女を誘ったら、
ここから連れ出せるんじゃないか。
という期待を持ってしまった。

「そんなことすると、忘れられなくなるよ。」
本当に忘れられそうにないのだけれど、
なるべく冗談に聞こえるように言えただろうか。
「お互い様、忘れないためにそうするのよ。」
彼女は僕の目をチラチラと恥ずかしそうに見る。
どうやら、
彼女も僕と同じように、
一緒にいようかやめておこうかと考えていたようだ。
なんだ、探り合いをしていたんだなあと思うと、
今日はこのまま帰った方が気持ち良く寝られる気がした。

おやすみ、僕はそう一言言って、
内側に熱い空気を感じるほどの距離で軽いハグをした。
おやすみ、いい夢を。彼女はそう僕に囁いた。

一日の最後に話した会話を覚えていることが
人生でどのくらいあるだろうか。
話の節々を思い出して、その顔を思い出して、
ベッドの上で笑い転げて眠れない日もあるだろう。
勝つとか負けるとか、
そんなことはどうでも良いのに
自然と探り合ってしまう時間が、
人生でどれくらいあるのだろうか。
今日は本当に楽しい夜だった。
いつになっても敵わないなあと思いながら眠る。
たったの数時間が、おやすみと記憶に語りかけている。

いい夢を見られるように、
今日はよりそう願う。
彼女も真っ直ぐ家に帰って、
ベッドの上で笑い疲れて眠れるように。

fin.

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