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「松の木の物語 ~(その4)自然災害との苦闘の歴史」

 村山さんに案内され、唐臼山に登ってみると、その木は、想像していたより遥かに大きかった。
 里山の山頂中央にどっしりと腰を据え、そばに祠を従えている姿には神々しささえ感じられ、思わず立ち尽くしてしまった。
 長い時を生き抜いてきたその木の樹皮に、たくさんのキノコが生えていた。ヒトクチタケという、枯れて間もない木に付くキノコだった。

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 マツクイムシ被害に遭った松には、赤いテープが巻かれる。伐採のための目印である。唐臼山だけでも、赤いテープはあちこちに見られた。リサーチ パーク周辺を案内してもらい、いにしえ公園の古墳などを見て回ったが、辺りの山々を見ると、松枯れはかなり進行していた。

 「これは想像していたより酷いですね」

 たった1人で、分布図を作成しなければならなかった村山さんの胸中を思うと、それ以上言葉が浮かんでこなかった。
 地図を作ったからと言って、それが直接何かの役に立つわけでもないが、何もせずにじっとしていることが出来ない。枯死した木のために、とにかく何かしなければ・・・。考えられること、出来得ることは、全て行動に移さねば気持ちが収まらない。そんな状態だった。

 その後、村山さんの自宅に戻ると、それまでに集めた資料を手に、上田市塩田平のことをいろいろと説明してくれた。

 宝暦4年(1754年)からの記録を見ると、旱魃、霜害、洪水など、天変地異の記載が多い。
 塩田平は、年間降水量が900mm以下と少なく、人々は、用水の確保に苦労してきた。日照りが続き旱魃になると、雨乞いが行われる。麦藁などで作った松明を持ち寄り、約20ヶ所のため池に集まり、一斉に点火され、勇壮な風景が繰り広げられる。
 現在は河川にも護岸工事がしっかりとほどこされているが、かつては、一旦大雨になると土地の低い地区へと水があふれ出た。
 単純計算すると、3年弱に1度は、深刻な災害に見舞われていたことになる。
 明治時代には、「宝積社」という、住民による相互扶助組織が作られた。日ごろから、皆で縄を綯って蓄えておき、困った者が出たときは、その縄を売った金で助けた。

 村山さんが子どものころまでは、唐臼山の頂上に旧・新田村の村人が集まり、山仕事が行われていた。そして、落雷避けと雨乞いのお祭りが執り行われた。共に祈り、心を1つにする神聖な場所として機能していたのだ。
 その象徴と言える大松を、跡形も無く消し去ってしまうことを、彼はどうしても容認できなかった。
 だが、かつての災害との苦闘、唐臼山の大松が、かつての新田村にとって、どのような存在だったのか、しっかりと理解している人など、地域の中には、ほぼ誰もおらず、彼が熱心に調べれば調べるほど、温度差は広がっていった。

 前年10月、大松が枯れ始めているのに気付き、そのことを地域の主だった人たちに伝えて回った頃は、快い反応を見せてくれた人も多かった。そういった人たちまでが、保存活動に背を向け始めたことが、村山さんにはどうにも理解できなかった。

 「目の前の利益に結びつかない。今の生活にも直接関係ない、そんな活動には、興味がないみたいだな。大事なことなんだがな・・・」
         
 そんな言葉を力なく繰り返すばかりだった。

 この頃、村山さんは、塩田文化財研究所の黒坂周平所長に、保存活動の主旨を伝え、相談を持ちかけ、周囲が動かなくて困っていることを切々と訴えている。
 黒坂先生は、彼の志を汲み取り、協力を惜しまないと約束してくれた。
 途方にくれていた村山さんは、激励の言葉に胸を熱くし、涙が流れるのを禁じえなかった。
 彼が追い込まれていた孤立感の深刻さを物語るエピソードである。


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