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「森の中へ ~ よみがえった記憶」

 私がまだ長野県上田市に住んでいて、音楽制作とピアノ指導を生業としていた頃のこと。シンセサイザーや録音機材を備えたプライベートスタジオと、真ん中にグランドピアノを置いたレッスン室を自宅に構え、1週間のうち2日は地元の楽器屋直営の音楽教室に教えに行っていた。1日は長野市、もう1日が佐久市の教室。それぞれ、我が家から車で1時間ほどの距離だった。

 その日は、佐久の教室へ向かって車を走らせていた。
 楽器店の店長さんが紙切れに書いてくれた地図だけを頼りに、谷合の小さな町をいくつかすり抜けて約1時間。川沿いに細く伸びた一本道が大半を占めていた。ほとんど土地勘もなく、通勤路以外は全て見知らぬ空間だった。
 いつものように、緑豊かな風景を楽しみつつハンドルを繰っていると、行く手を遮る立て看板が見えてきた。

 工事のた通行止め。

 迂回路を示す矢印は、幹線道路から左へと分岐する細い山道を指している。
 初めての道だ。その先がどこにどう繋がっているのか、全くわからない。たぶん、いつもより時間もかかることだろう。レッスンの時間に間に合うだろうか? そんな懸念を抱きながら、蛇のように細く曲がりくねった上り坂を辿った。

 しばらく走ったところで、不意に胸の奥を微かにくすぐられるような感覚が呼び起こされた。
 かすかな幸福感とでも言えばよいだろうか・・・

 差し迫っている状況とは全く無関係に、心が勝手に動いている。
 自分が何を感じているのか、よくわからなかった。

 坂を上り詰めると、見知らぬ高台の町並みに出た。少しだけ窓を開け、風を受けながら進んで行くと、仕事に向かっているはずなのに、気ままなドライブ旅行しているかのような錯覚に陥りそうだった。

 やがて道路は下りはじめ、見覚えのある街並みが見えてきた。

 レッスン予定時刻にはどうにか間に合い、いつもと同じようにレッスンを終え、そしていつも通り帰途に就いた。 

 仕事を終え、田舎道でのドライブを楽しんでいると、朝感じたあの感覚が再び蘇ってきた。

 胸の奥をくすぐる温かな幸福感。

 その感覚に身を任せながらハンドルを繰っていると、ある一場面が脳裏に浮かんだ。

 小さな背中・・・

 こどもの背中・・・

 その周辺の様子はわからない。ただ背中だけが見えている。

 いつか見たことがある。
 
 テレビで見た一場面だろうか・・・、

 いや、そうじゃない。

 でも確かに見たことがある。

 切り取られたモノクローム写真のような一場面が、しばらく脳裏に浮かび続けていた。

 その周囲に何かが見えそうな感じがするのだが、なかなか見えてこない。曖昧模糊としたもどかしさの中で、何かがうごめいている。

 不思議な感覚を胸に抱きながらハンドルを繰っていると、その輪郭のぼやけた記憶が、次第にはっきりとした像を結び始めた。

 子どもは慌てたように何かを掻き分けながら前に進んでいる。

 生い茂る細い竹林・・・

 鬱蒼とした森・・・

 町を取り囲む低い山の中・・・

 見えてきた。

 濃霧がすーっと晴れ渡るように、はっきりと見えてきた。

 小さな背中は・・・、

 近所に住んでいた同い年の友だちの後ろ姿だ。

 小学校低学年、一年生だった。

 そう・・・、

 鹿児島市常盤町に住んでいた頃だ。

 瞬間的に浮かんだ記憶の断片。

 まるで鍵穴から覗いているみたいな記憶のカケラ。

 そこから、次第に視界が開けるように広がって行った。

 友の姿、声、森のざわめきや匂い、肌触りなどが、まるで今体験しているかのように鮮やかに蘇って来る。

 上田の自宅へとたどり着き、エンジンを止めてからも、しばらくシートに背をもたせかけたまま、脳裏に再生される幼き日のひとときに、じっと我が身を浸していた。

 それまでに経験したことのない感覚だった。

 幼馴染み3人組。

 私の戸籍名を平仮名表記すると「よしふみ」。
 他の二人は、それぞれ「よしひろ」「ひろふみ」。
 知らない人が一度に聞かされれると、どれが誰の名前だか分からなくなりそうな似通った名前。

 駆けっこや木登り、忍者ごっこ、三角ベース野球などに興じる毎日。
 近隣の山に入って、グミや椎の実、ムカゴ(山芋の実)などを採って食べたり、虫を捕ったりして遊ぶこともあった。

 ある日ある時、その中の誰が言い出したのか、あの山を越えてその向こう側まで行ってみようということになった。

 見知らぬ空間に踏み込んで、そこに何があるのか知りたい。

 一体何が待ち受けているのか・・・。

 「誰が一番前になる?」

 「ひろふみくん、誕生日が一番早いから、隊長になってもいいよ」

 「いや、別に僕じゃなくてもいいって」

 できれば先頭になることは避けたかった。3人ともちょっと及び腰になりながら、名誉の隊長の役目を、それぞれ一歩下がって譲り合い、自分以外の誰かが先頭になってくれることを互いに期待した。
 だが、そうは問屋が卸さない。

「やっぱり平等にしないとね」
「そうだね」
「3人で交代交代にしよう」
「最初はじゃいけんで決めるが!」

 その当時、ジャンケンのことを鹿児島方言で「じゃいけん」と言っていた。
 掛け声も「ジャンケンポン」ではなく、もっとゆったりとしていて、
 
「じゃーいけんでぇおし! あーいこーでぇおし!」

 さてと、切り込み隊長が一旦決まってしまうと、腹も据わり、勇んで山に入った3人の探検隊。
 代わる代わる先頭になりながら、雑木林や竹や草が密集する山の奥へどんどん入っていった。
 行く手を竹藪が遮っていても、かまわず掻き分けて進んで行った。

 背中に羽の生えた森の妖精に会えるなんて思っていたわけじゃない。
 でも小学校一年生なんて、まだおとぎ話の余韻から完全には覚めきっていなくて・・・、何かもっと別なもの、魅惑的な何かが待っているような期待感を抱いていた。

 リスやウサギが顔を出すかもしれない・・・

 でもタヌキには化かされないようにしなきゃ・・・

 そんなことを考えていた。

 ところが・・・、

 進んでも進んでも・・・、

 森は無関心なままだった。

 風に揺れる木々のざわめき、

 足元をくすぐる草の感覚、

 纏わりつく蜘蛛の巣、

 突然飛び立つ野鳥の羽ばたき・・・。

 森は微笑んでなんかくれない。

 無慈悲なざわめきが、ざらついた舌で背筋をなめまわし、冷や汗が滲み・・・、そして、底知れぬ恐怖感が押し寄せてきた。

 引き返そうとしても、どちらに戻っていいのかわからない。

 前進しても、後退しても・・・

 右に行っても、左に行っても・・・

 森は同じ姿で僕らを包み込んでいる。

 動作はやたらと早くなり、

 息は荒くなっていた。

 3人とも言葉を発しようもとしない。

 声を出しても、森の中に吸い込まれるだけ。

 誰の耳にも届かない。

 森という巨大な異空間に、

 すっぽりと飲み込まれていた。


 3人は、同じことを考えていた。

 ― ぼくたちが今ここにいることを、誰も知らない。
 
    助けは来ない。

     明日の新聞に載るかも知れない。

      小学生3人行方不明 ―

 
     この先一体どうなるんだろう?

     考えを巡らせても、何の手ごたえも得られない。


    どれくらい歩いたことだろう。

 やがて、木立の隙間から下界の町並みが.チラチラと見えてきた。

   ― 出られる・・・

     やっとここから出られる ―

 そして・・・、

 ようやく・・・、

 見晴らしの良いところに出た。

 遥か下方に町の広がりが見える。


   ― やったぁ! 

       助かったぁ! ― 


 眺め渡すと、そこは慣れ親しんだ薬師町だった。
 自分たちが通っている西田小学校も見える。

 森に入る前、僕らは何となく原良方面に出るのではないかと予想していた。常盤の森から北へ進んだつもりだったのに、実際には北ではなく大きく右へと逸れ、東へと進んでいたようだ。

 そうして、今・・・、僕らはここにこうして立っている。

 いつも下から見上げていた山の上にこうして立ち、僕らが毎日動き回っていた町を、まるでかみなり様のように悠然と見下ろしている。

 大きなことを成し遂げたかのような達成感と、勝ち誇ったような気分を胸いっぱいに感じていた。

 息を弾ませ足早に下って行くと、ほどなく町が間近に迫ってきた。
 安堵感に歩を緩め、友だちに話しかけようと振り向くと、土埃で頬が煤け、目は充血し、服は汚れている。

 「あれぇ? 目が赤いよ。泣いたんじゃないの?」
 「泣くわけないがねぇ。自分だって、目が赤くなってるよ!」

 見るも無残な姿を互いに笑い合った。
 カラカラに乾いた喉の奥に、チクチクと小さな痛みを感じた。

 見慣れていたはずの景色がひどく懐かしかった。

 切り出した自然石が積み上げられた古い石塀、
 生垣を形作る灌木の青々とした葉、
 背後を取り囲む低い山々、
 運動靴の裏に感じる未舗装道の土の感触と匂い・・・

 そういったすべてが、僕らを静かに待っていた。

 「あの山を越えた子どもなんて、僕たちだけだよ」
 「そうだね」
 「途中で、出られなくなるかと思って怖かったよ」
 「明日の新聞に載るんじゃないかって考えたよ」
 「そうそう、ボクも同じこと考えてた」
 「親に話したら怒られるね」
 「誰にもいっちゃダメだよ」
 「3人だけの秘密だからね」

 甲高い声ではしゃぎながら、自分たちの住む町を目指した。
 腹をぺこぺこにすかせ、家族が囲む湯気のあがる食卓を思い浮かべながら・・・。
 
    * * *

 それから30年もの時が流れ、遠い信州の片田舎で、それまで土中深く眠っていたかのようなその記憶が、突然氷解し、姿を現した。

 信州の見知らぬ山の中へ入って行き、その山を一つ越えなければならないという状況に遭遇したときに、かつて少年時代に体験した、同じような状況での記憶が揺り起こされた。

 特定のにおいが、それに結びつく記憶や感情を呼び起こす。プルースト効果と名づけられているそのような現象をあなたも経験したことがあるのではないだろうか? フランスの作家マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という小説の中で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した際、その香りで幼少時代を思い出す場面があり、その描写が元になっている。

 「出口のわからない山の中へ入って行く」という状況が、プルースト効果における「におい」の役割を果たした。

 古い記憶が蘇る。それだけなら他にも何度か体験したことはある。だが、不意を突かれるように、30年も前の記憶が突然鮮やかに蘇ってきたというのは、この時が初めてであり、今のところ人生でただ一度のみである。
                     

かつて自宅があった場所のそば。現在では、左側の緑に覆われた部分は             すっかり様変わりしている。
この森を越えてみたくなった
3人は、ここから中へと入っていった。

                  (2023年 6月)

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