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「松の木の物語 ~(その2)供養祭実現への困難」

 新年総会に参加した人たちは、旧班長の話を興味深く聞いていたように見えたという。しかし、松枯れの原因調査と供養祭の提案には、消極的な反応しか見られなかった。

 唐臼山で共同作業や祭が行われていたのは30年前までのことで、当時とは地域の在り方が大きく変化している。
 農林業専従者はいなくなり、20軒だった世帯数は、80軒以上に増えた。大松の存在すら知らない住民が増え、唐臼山を中心とした地域の共同体意識は希薄になっていた。
 しかも、その山の大部分は、上田女子短期大学付属幼稚園の所有となっている。自治会が、他人の土地に対して、あれこれと進言するのは出すぎた行為だという考え方もあった。

 時代の波は、地域を大変貌させていた。山が削られ、畑は潰され、横断道路が作られ、川の流れは変えられ、コンクリートで固められた。二つの大学が誘致され、運動公園が作られ、リサーチパークの建設が進められていた。松枯れの原因調査は、そういった流れに抗う行為と見做され兼ねない。
 また、そういった調査は、素人が手弁当で行うには重過ぎる課題だとも言えた。
 村山さんは、宇都宮大学農学部大学院を卒業した後、京都府立の農業高校の教師を務めている。農林業や自然科学は、彼にとって専門分野である。村山さんの視線と、他の地域住民との間に、大きな温度差が生じるのはある程度仕方の無いことだとも言えた。

 村山さんは、大学卒業後、22年間の県外生活を経て、下之郷にUターンしてきたという経緯がある。平成5年といえば、それから、まだ6年しか経っていなかったわけで、帰郷した者の単なる感傷としか受け止められていなかった。実際、彼が老松に対して、何かしなければいけないと強く感じた原点には、幼少年期の体験への強い郷愁が作用していたのも事実である。その後、歴史的な発見が為されるのだが、この時点では、彼の直観と、地域の長老の「村の宝だった」という言葉ぐらいしか、活動への裏付けとなるものは提示できなかった。
 唐臼山の大松は、天然記念物に指定されているわけでもなく、有名な伝承があるわけでもない。当時は、地域のわずかな人々が知るだけの無名な木だった。
 大多数の地域住民の立場に立って考えてみると、それまでほとんど話題になることのなかった老松が、突然新年総会で議題として取り上げられ、「供養祭をやりましょう」「原因調査をしましょう」と呼びかけられても、実感として受け止められなかったのも、無理のないことだった。
 しかも、言い出した人物は、22年間も故郷を離れていた、まだ40代半ばの無名人である。出過ぎた売名行為という冷ややかな見方まであった。

 新年総会での発議は、「供養祭」と「枯死原因調査」に留められていたが、実際は、その先に「切り株を残したい」という想いがあった。ところが、最初のステップさえ、なかなか踏み出せないというのが厳しい現状だった。

 新年総会終了後、村山さんは、一人で唐臼山に登った。

 ― なぜ、住民は動かないのか・・・ ― 

 煩悶しながら大松を見上げると、樹皮に松脂が噴き出していて、それが、まるで樹の涙のように見えた。

 ふと落雷避けの祠に視線を移したとき、お祭りのことを思い出した。

 唐臼山では、年に一度、落雷避けと雨乞いを祈願する八十八夜の祭りが行われている。

 祭・・・。

 人が歌っている姿が思い浮かんだ。

 ― 人の心を動かすには、歌があると良いのではないか・・・ ―

 彼は、家に帰り、さっそく地元出身のフォーク・シンガー黒坂正文氏に、作曲を依頼する手紙を書いた。


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