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「松の木の物語 ~(その3)進展しない保存活動」

 村山さんが、地域内であれこれと模索している間に、短大主催の供養祭が行われることになった。

 大松は、園児たちから「やまんばの木」と呼ばれていた。『やまんばの木』という紙芝居に出てくる大木に似ていることから、散歩やかくれんぼの場として、あるいは野外活動の集合場所、運動会の父母参加種目の折り返し地点として親しまれ、そして、「やまんば劇場」という学芸会も開かれていた。
 老木の枯死を知らされて、涙を流す園児もいたという。老松は、幼稚園にとっても、多くの思い出を残してきた木だったのだ。

 供養祭には、園児たちを含む幼稚園関係者と、住民代表が参加し、そしてお払いが行われた。

 供養祭が行なわれた後、村山さんは、市の農林課に、伐採後の切株保存を含むいくつかの要望を出し、林業指導員から、切株保存と植樹の先例として、伊勢山自治会の《信玄ゆかりの「鐘かけの松」》の取り組みを紹介された。
 有志による見学会を企画し、4月29日「みどりの日」に設定し、ビラを配って地域に呼びかけた。その結果、5人がそれに応え、伊勢山地区を訪ね、交流会を開いた。
 老松保存に向けて、地域住民からの、初めての反応だった。

 伊勢山自治会から、「個人で要望するより、まず保存会を結成し、市当局に提出するとよい」というアドバイスを得て、さっそく発足に向けて動き出すことにした。
 ようやく、保存活動に向けて、第1歩を踏み出せるかに思えた。

 ところが・・・、

 交流会に参加した5人中4人から、保存会への参加に関しては曖昧な返事しか得られなかったのである。

 交流会なら気楽に参加するが、切株保存となると、露骨に面倒がった。

 相変わらず、地域は動かない。
                          
 村山さんは、交流会に参加した旧班長・三木清之助氏に頭を下げ、会長就任を願い出た。
 意気に感じた三木さんは、首を縦に振ってくれた。
 村山さん自身が事務局長を勤め、顧問役を、老松保存を願っている村の最長老・小林あやみさんにお願いすることにした。
 こうして、見学会の翌日、会員僅か3人という苦しい保存会スタートとなった。

 その後、追い風が吹くどころか、地域内で動けば動くほど、厄介者・変人扱いされる始末。
 顧問の小林あやみさんが、自主的にビラを配ったりして協力してくれている様子を見て、年寄りを騙して利用している、などと陰口を叩く者さえいた。

 そういった心無い反応に、会長と2人で弱り切ってしまい、
 「これは、どうにもならん。活動はあきらめよう」
 「いや、やはり大事な事だから、止めるわけにはいかんぞ」
 などと、会の存続自体を巡って、考えは二転三転した。

 村山さんから久しぶりの連絡をもらったのは、そんな頃だった。

 ― 1度大松を見てみないか ―

 保存活動が停滞し、地区内で孤立していた彼は、その窮状を話す相手を求めていた。                     

 5月7日、自宅を訪ねると、新年総会以後、1人で調査作成した松枯れ分布地図を見せてくれた。
 山のどのようなところから、松が枯れ始めているのか、地図を指しながら、彼の推論を語ってくれた。その地図を見ると、松枯れは開発と裏腹になっており、それを正面から発表できないでいるジレンマに取り付かれていた。
 心労がたまっているという彼の姿は、見るからに力無く見えた。


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