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「松の木の物語 ~(その7)戦国時代の伝承」

 昭和10年の『青友会社務日誌』に、次のような記述が残されていた。

― 彼の大松、甲斐名将武田信玄公と越後の上杉謙信公の川中島合戦時代の物と言われるが判然せず。而して史蹟たる事は歴然たる事実であると思ふ。

 明快さを欠く内容ではあるが、武田氏が二木大明神を所領安堵したという史実が残っていることを考え合わせると、松そのものが武田氏所縁のものであることを匂わせる伝承ではある。 
 ただ、伐採された年輪から、老松の樹齢は200年余りだったことが判明したばかりである。唐臼山の老松そのものが、戦国時代に存在していなかったことは確かだ。

 村山さんは、さらに資料探しや聞き取り調査を精力的に続け、ある興味深い伝承に行き当たった。
 元校長先生だった方が、有識者であったというお祖父さんから、次のような話を伝えられていた。

― 上田原の合戦のとき、多くの死者を出した武田勢は、その亡骸を唐臼山の頂上に運び、荼毘に付したのち、遺骨を甲斐の国に持ち帰った。後始末を神畑(かばたけ)の某氏(具体的な名前が挙げられたそうである)に依頼した。唐臼山頂には、松が植えられ、大きく成長したが、ある年の大旱魃により枯れ、今の松は、その後植えられた2代目である。

 唐臼山頂からは、戦場となった上田原がよく見渡せる。そこに立つと、後方陣地として適所であることがわかり、先の伝承がごく自然なものとして受け止められる。

 ここからは想像であるが・・・
 ― 古文書に記されながらも、長い間その場所さえ確認されていなかった二木大明神は、200余年前、その南西に新田村が開かれた際に再興され、鬼門封じの創村記念樹として、二木神社の名にちなんで二本の松が植えられた。以後、唐臼山は新田村の村人たちが、祈り、祝い、喜びを分かち合う、村の聖地として機能してきた。2本立っていたうちの1本は、ある年、なんらかの原因で枯死。そして、平成の世に、残る1本もマツクイムシ被害により枯死。―
 こんな歴史が浮かび上がってくる。

 老松の切株に年輪の偏りがあったことが、古文書に記された幻の社・二木大明神の発見に繋がったことにより、切株保存活動が、急速に広がってゆくことになる。
 各種新聞・雑誌などで取り上げられ、中でも東信ジャーナルなどは、シリーズ企画として保存活動の詳細を連載。郷土史研究・教育研究の専門家らの注目を集め、唐臼山を視察訪問するケースも出てきた。そして、村山さんは、様々な場で、発表を請われるようになってゆく。

 老松保存会の会員も徐々に増え、その年の暮れには保存会と下之郷自治会から上田市に、史跡保存等、いくつかの項目からなる『唐臼山の老松と頂上に関する要望書』が提出された。老松が枯れた直後、なんの伝承もない無名木だと思われていた頃とは、状況は変わってきていた。

 村山さんが、老松保存へ地域に呼びかけたころ、なかなか理解されないばかりか、誹謗中傷その他、保存活動への強い逆風を感じ、彼はぶつけ先の無い怒りを持て余し、塩田文化財研究所の黒坂先生に相談したことがあった。
 その時、黒坂先生は「敵を作ってはいけない」と彼を諌めた。
 世の中には、いろんな立場の人間がいるのは当たり前のことであり、1つ事を成し遂げようとすれば、必ず反対の立場の者が現われる。それを含めて、あらゆる立場にある人間を、この世の仲間だと思うぐらいの視点をもたないと駄目だと言われたのである。

 老松の枯死に気付いて動き始めたころの村山さんは、世間から見ると何を考えているか分からない謎の人物でしかなく、しかも、老松が伐採された段階では、まだ歴史は発見されておらず、世論形成も成されていなかった。
 その段階で、なかなか人が付いてこなかったのも、それは仕方のないことだった。
 ― 様々な誤解に基づく反対論者にまともにぶつかって、対立姿勢が前面に出るのが一番まずい。ただ正しいと思ったことだけを進めて行けばいい。それ以外の一切のことは考えるな。―
 そう言われ、彼は、それに従った。
 年輪の偏りにこだわり、辛抱強く丁寧に調査を続けた結果が、歴史発見につながり、活動も社会的な広がりを持ち始めたのである。

 平成16年2月7日に黒坂先生が亡くなってから後も、あの助言はありがたかったと、村山さんは繰り返し口にする。


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