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「松の木の物語 ~(その8)老松保存会 第1回役員会*作曲依頼」 

 老松への取り組みは、教育分野で注目され始める。

 松が伐採された翌年の平成6年(1994年)、丸子実業高校の社会科学部というサークルが、研究対象として老松保存活動に取り組み、その成果を文化祭で発表した。 
 指導にあたった教師が、それを地区の教育研究会で発表したところ、高い評価を受け、県の集会でも発表、全国集会にも参加することになった。

 さらに翌年の、平成7年(1995年)の夏には、日中地域教育国際研究会で、主催者からの要請を受け発表することになり、村山さんは、代表として天津に渡った。
 全体を約15分にまとめ、中国語に訳した『風になれヤマンバの木』で締めくくると、会場からは盛んな拍手が送られた。
 通訳の方から「涙が出ました」と伝えられ、そして参加者からは「大変感動し、日本人の優しさが解りました」という感想が聞かれた。

 村山さんは、読売新聞社主催の『地球にやさしい作文・活動報告コンテスト』に応募し、一般の部で入賞。

 保存会で主催した「自然探索会」「大往生3年祭」など、活動を重ねるうちに、地域での知名度も高まってゆく。
 郷土史研究会との共催による「ふるさと学習会」、塩田公民館主催「塩田の歴史・文化を学ぶ集い」、下之郷子供育成会主催の「ふるさと学習会」など、講演依頼も増えてきた。

 上田市大字富士山(ふじやま)の里山にそびえる市の天然記念物『信玄の兜松』(1996年7月枯死)活性化プロジェクトと合流、それまでの活動を通じて徐々に増えていた会員数も、それを機に100人近くなった。

 伐採3周忌を迎える1996年6月2日。下之郷公民館で第1回の役員会が開かれることとなった。

 この役員会の開催に合わせて、私は村山さんから老松をテーマにした作曲を依頼される。 

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 「1本の木にこだわっている男がいる」という話を聞いて村山さんと知り合い、塩田平の厳しい自然(旱魃・水害・霜害など)、そして力を合わせて乗り越えてきた明治時代からの民衆の記録や、雨乞い・雷避の祭りなどを知ることになった。
 その後、上田原の合戦にまつわる伝承が浮かび上がり、老松の切株から二木大明神も発見された。

 この一連の流れを、村山さんとほぼ同時に体験できた人間は、私以外にいないという。孤立状態にあったころ、老松保存への話に耳を傾ける人は他にいなかったことを、この時初めて知った。

 孤軍奮闘時の心情を知る者として、歴史発見に繋がる過程をリアルタイムで共有し、胸をときめかせた者として、その感動体験を音楽という形で伝えたい・・・、そんな思いが膨らんだ。
 村山さんとしては、会を支えるシンボルのようなものが何か欲しいという気持ちがあった。

 最初に着手したのは、初めて唐臼山に登ったときに、既に枯死した状態で立っていた大松の姿と、村山さんの無念さを思って作った曲。タイトルは『Big Tree Elegy』。西洋の弦楽器群に、尺八や琴等、和楽器の音色を織り交ぜて、時間的なスケール感と胸に迫る無念と悲しみを表現した。
 6分ほどに仕上がった曲を、カセットテープに録音し、まず村山さんに聴いてもらったところ、大変に感動し、家族全員に聴かせてくださった。
 第一回の役員会での初披露のときも、会場に集まった皆さん全員が、身動き一つせずに最後まで聞き入ってくれた。
 このとき地元の新聞社も取材に来ており、組曲の構想が記事として先行することになった。

 最初は、4曲ほどの組曲を考えていたが、以後、役員会が開かれるたびに、1曲ずつ増やし、最終的に12曲の組曲となるが、その作曲への取り組みが、老松保存会の意向で前面に押し出されてゆく。

 その後、村山さんが保存活動を紹介する講演を行う際、1~2曲ビデオ映像付きで音楽を流すようになり、「作曲を応援する会」なるパーティまで開かれた。

 こんな具合に、全てが周りによって運ばれて行った。


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