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「松の木の物語 ~(その9)保存会の充実、組曲の完成」

 老松保存会の活動も幅を広げ、里山の保全活動、マツクイムシ被害で枯死燻蒸処理されたあとの放置ビニール撤去、りんごジュース作りなどの他、会員として参加している人たちが、それぞれの専門分野を活かして、1夜づつ担当する「ヤマンバ講座」も開かれるようになった。
 対外的にも、上田市の公的機関や市民活動団体などが構成する各種ネットワークに加わり、地域での認知度も高くなっていった。

 組曲を作曲中だった私も、シンセサイザーや音響器材を車に積んで、あちこちのイベントに顔を出し、そのたびに唐臼山の松の話を交えながら、その時点で完成していた曲を披露し続けた。

 CDの完成は、地元紙「信濃毎日新聞」で記事として取り上げられ、老松保存会の存在と共に、地元で広く知られることとなり、有志の呼びかけで祝賀会も催された。

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 その後、家庭の事情で故郷鹿児島へと居を移すことになるが、老松が伐採される前に村山さんと出会い、保存会発足までの困難と苦悩を同時体験し、今こうして順調に進み始めるまでを見届けられたのは貴重な体験となった。

 ここまでの経過をこうして文章化するに当たって、上田市に住む村山隆さんに連絡を取ってみたところ。その後の活動を記した資料が送られてきた。
 会報の中に、ある会員の方による活動を紹介した手記が掲載されており、そこには、その後の私の知らない活動についても書かれていたので、ここに転記させていただくことにする。

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 私たちヤマンバの会は、平成5年、上田市下之郷唐臼山にあった1本の赤松「ヤマンバの木」の伐採を契機に生まれました。会名は、その木に由来するもので、発足の当座は地元下之郷の自然保護を目的にする集まりでした。
 その後、この松が、地域共同体に様々な問いかけをしていると訴えた村山隆事務局長の感性に惹かれて様々な人が寄り合い、活動も多岐にわたって今日に至っています。
 現在は、里山復活をめざしての自然保護活動が主ですが、1本の木にこだわったあり方が注目されてか、上田市を始め、広くは、中国の環境教育関係者にもその存在を知られることとなりました。
 この10年余の活動としては、地元の「信玄の兜松」や「大六のけやき」の保護、みみず神社の顕彰と小学生の人形劇支援、山林の放置ビニールの撤去などですが、最近は太平洋戦争末期の「松脂採取松の保存」と、それに絡めて高校生への活動支援に取り組んでいます。
 私たちの活動の特徴は、自然保護を文化活動としてとらえようとしていることだと思います。ヤマンバの木について言えば、伐採木から地域の歴史を掘り起こし、伐採の意味や背景を音楽や出版に結び付けて幅広い展開を繰り広げたことがそれです。一方「やまんば講座」という名で、その時々の自然保護問題の勉強会(37回を数える)を継続していますが、これも文化活動の一端です。
 これまで順調にこれたのは、自然保護が時流になる世相のもと、確固とした組織作りが出来たこと、活動の経過を会報やビデオなどでその都度記録に残して来たことによるものと思います。加えて、会員一人一人がそれぞれの持ち味で、それぞれの場で活動できたこともその要因だったようです。

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 その後、老松の切り株を永久保存することが決定し、唐臼山の頂に鎮座しています。



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