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「イジョージ・ハリスン ~ 中学時代の同級生のこと」

 自室のラックに並んだDVDの中の1枚にふと目が留まった。「ハッブル望遠鏡」。久しぶりに観てみようかと思い、手にしているうちに、「天文」という言葉からある友人のことを思い出した。

 中学2年のとき、クラブ活動の天文部に所属していた同級生がいて、入部を誘われたこともあった。夜、部室に集まり、顧問の先生のもとで天体望遠鏡を覗き、土星のリングや月面のクレーターを観察したり、数少ない部員たちとの語らいの様子を聞かされ、心が動いた。試しに1度観測に参加してみないかと、日時指定で誘われたこともあって、大いに気持ちが揺らぎながらも、その当時は、ロックバンドの練習を第一に考えていたので、結局は1度も参加することはなかった。誘いに乗って、実際に天体望遠鏡を覗いていたら、その後の天文に対する思い入れも違ったものになっていたかも知れない。

 成績の良い奴だった。彼と親しく話すようになったのは、そもそもその成績に関する噂が発端だった。同じ小学校出身で顔なじみだった2人と雑談する中で、彼が学年で2番になったことがあるらしいと耳にした。当時学年20クラスというマンモス校。千人近い生徒数の中で2番になるというのは並大抵のことではない。
 最初に話しかけたのも、そのことだった。学内テストで2番になったと聞いたが、本当かと問い掛けると、「1度だけだけどね」と屈託のない笑顔が返ってきた。

 ビートルズのアルバム『アビーロード』が発表された年だった。K君という学友が、ある1枚の写真に写ったポール・マッカートニーの顔が自分に似て見えることに気付き、名前が「徹」君だったところから、「トール・マッカートニー」を自称し始めた。4人の仲良しグループで、残る3つのポジションから皆ジョージになりたがった。ジョン・レノンは、僕らの中では人気がなかった。当時ヨーコ夫人と繰り広げていた平和運動が、中学生の目には奇異に映っていたのだ。残るジョージとリンゴでは、ジョージの方が見た目も良かった。そこで、「いじゅ」で始まる自分の苗字「いじゅ〇〇〇」を「イジュ―」→「イジョー」→「イジョージ」と無理やりもじって、「イジョージ・ハリスン」を主張したのが、くだんの彼だった。しかし、そちらは洒落としてもかなり苦しく、姿も似ているとは言い難く「トール・マッカートニー」に比べると、クラス内での認知度も低かった。たぶん僕以外には覚えている奴もいないんじゃないかな??。

 学校帰りによく鹿児島市のほぼ中央を流れる甲突川沿いを歩きながら、クラスメイトの噂話や、流行の音楽の話をしたものだ。護国神社電停そばにあった小さなレコード屋によく寄っては、あれこれと視聴したのが懐かしい。互いの家に遊びに行くなど、親しくなったが、ある日ちょっとしたことからいさかいになった。子供ならでの他愛無いものだったが、以後関係がぎくしゃくし、そのまま3年に進級し、別なクラスになった。その後たまに顔を合わすと、互いに照れ臭そうな顔で、挨拶代わりにおどけた仕草をしたりしていたものだ。中学卒業後は、それぞれ別な高校に進学し、連絡も途絶えた。

 突然親交が復活したのは、それから32年も経って、故郷鹿児島へとUターンしたときのことだった。長い県外生活を経て、知り合いもいない中、電話帳から同級生の名前を探し出し、何人かに連絡を付けた。その中にあのい「ジョージ・ハリスン君」の名はなかったが、ある1人から仙台に行ったという情報を得ることが出来た。本名以外で知り得た情報が「仙台市」のみ。それでは見つからないのではないかと思ったが、ダメモトでNTTの番号案内を使ってみたところ、あっさりと知ることができた。

 電話に出た彼は、鹿児島特有のイントネーション、昔と変わらない独特の口調で、32年というブランクを感じさせない、まるで2~3日前にも話したかと錯覚させるような親しみの感じられる話し方だった。
 年の離れた兄弟の末っ子で、ご両親もすでに亡くなっており、鹿児島に帰省する直接的な用事も無くなったと言っていた。そんなわけで、なかなか故郷に帰る機会もないというが、そう遠くない日に、ゆっくり話してみたい。その後、互いに異なる人生を歩んで来たわけだが、川べりを歩いたこと、当時のクラスメイトのこと、イジョージ・ハリスンのこと、喧嘩をしたこと・・・、そういうささやかな体験を共有し、心はいつでもそこに戻れるのが同級生というものだ。

 Uターンしてから今年で20年になる。ということは、電話で話してからも当然20年経っている。ってことは、もう半世紀以上も姿を見ていないわけだ!
 あぁ、なんだか今夜あたり電話してみたくなったなぁ・・・。

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