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体験小説「チロル会音楽部 ~ ロック青春記」第1話*チロル会発足

 

 はじめに

 昭和40年代。ロック・サウンドを耳にすることが、現在と違ってまだまだ少なかった頃のこと。中学校で知り合った仲間が、楽器を持ち寄って器楽合奏を楽しんでいるうちに、次第にロックに心惹かれ、バンドを結成し、コンテストで地区優勝するまでの過程を描いた青春小説です。

 登場人物は、のちに音楽業界で「名人」と称されるようになる末原康志君、ツイスト、ハウンド・ドッグなどのメンバーとなる鮫島秀樹君、プロのベーシストとして活躍する日高康寛君、等々・・・。

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 1968年春。       
 中学に入学して間もなく、音楽の先生から声をかけられて、器楽合奏部に入部した。このことが、3年間の中学生活を濃く彩ることになる。後にプロのギタリストとなる末原康志君と知り合ったのも、その器楽部でのことだった。
 部活動がスタートして、まだ間もないころ、先生から指名され、彼が部員全員の前でギターを披露したときのことを、昨日のことのように思い出す。曲は、当時ギター入門曲として流行っていた「禁じられた遊び」だった。

 僕が生まれた昭和31年という年は、太平洋戦争の終結から10年が経過、経済企画庁から「すでに戦後ではない」という宣言がなされた年である。
 子どもだった頃は、そんな意識は持たずに育ったが、10年と言う歳月を振り返ることができる年頃になってから、驚きにも似た感覚を伴って、終戦からの時間的隔たりの短さを知ることになる。
 戦後の荒廃から立ち上がり、ようやく世の中が安定し、高度経済成長が始まろうとしていた頃だ。
 4歳の時に通い始めた幼稚園で、楽器販売戦略と結び付けたヤマハの体系的な早期教育が行われており、自分の意志と関係なく、気が付いたときは、その音楽教室に通わされていた。
 両親共に、クラシックなりジャズなりポップスなりの音楽を楽しんで聴くという習慣を持っていたわけではなく、生活の中にほとんど音楽的環境は存在していなかったと言ってよい。
 ピアノのレッスンで、ツェルニーの練習曲や、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタなどに接したのと、学校の音楽の時間に鑑賞教材を聴いた程度の音楽体験しかなかった。
                         *
 その日、末原君は、大事そうにギターを取り出した。
 木造校舎だった小学校に比べ、白が基調の鉄筋校舎は教室も廊下も広く、窓も大きくて明るかった。普通教室より広くゆったりとした音楽教室の中、興味の赴くままに、自分が弾きたいから始めたというその楽器を弾く彼の姿が、なにやら眩しかった。
 指先で直接弦に触れて発せられる繊細な音。愛しむように爪弾かれる優しい音色を聴いていると、自分がそれまで体験してきた、「演奏」という行為につきまとう、生真面目で堅苦しいイメージから解き放たれ、清々しい気分になってゆくのを感じていた。

 詰襟の学生服や、教科ごとに先生が変わる中学生活に、まだ慣れていなかった。そこに集まっている部員たちの顔も、まだよくわからない。そういった緊張感も消え去らない空気の中で、彼がギターを演奏する姿は、器楽合奏部に何か楽しいことが待ち受けているような、漠然とした期待感を抱かせてくれた。

 ところが・・・、

 その期待感は、ものの見事に裏切られる。

 器楽部で男子部員が置かれた立場というものは、あまり居心地の良いものではなかった。アンサンブルの中で活躍する場面は殆ど無く、打楽器を除いたほぼ全員がハーモニカ要員。来る日も来る日も、あのちっぽけな道具を口にくわえて左右にもそもそと動かす作業を、面白いと感じている者はいなかった。
 ピアノ担当としてスカウトされたはずの僕も、ハーモニカに回された。ピアノ要員は3~4人いて、ピアノを弾かないときはピアニカを担当するということになっていたのに、ピアニカの台数が足りなかったのである。その後、補充すると言いながら、いつまでもそれは実現しなかった。

 男子部員が最も楽しみにするようになったのは、練習が終わった後の、下校途中のひと時だった。
 誰が発案したのか、ジャンケンして負けたものが、当時定価十円だったチロル・チョコレートを全員に奢るという遊びが始まった。

 名付けて「チロル会」。

 この道草同好会が、その後、様々な方向に発展。その中に「音楽部」もあり、それが後のロック・バンド活動への母体となるのだが、この時点では、誰もロックを演奏するなんてことは考えてもいなかった。それどころか、興味の対象にすらなっておらず、何の知識も持っていなかった。
 レッド・ツェッペリンがデビュー・アルバムをリリースする前の年である。テレビでもラジオでも、ロック・サウンドが聞こえてくるなんてことは、稀なことだった。

 ひとますロックのことは置いておくことにして、チロル会という中学生たちの秘密活動について、こっそりとお話しすることにしよう。

 1個10円という低価格から、気楽に始められた「チロル会」だったが、奢り奢られるという行為を繰り返しているうちに、規模は次第に膨らみ、ジャンケンは廃止され、気前の良い子が、皆に大盤振る舞いするようになっていた。
 会場となったのは、学校のそばにあった《まるみ屋》というパン屋。売り場の奥に、簡易食堂のようなスペースが設けてあり、そこが、学校や家庭からちょっとだけシフトした魅惑の空間と化し、皆でわいわいと盛り上がった。

 その店の1番の人気商品は、何と言ってもカツパン。濃厚ソースのかかったハムカツと刻みキャベツが、ロールパンに挟まっていた。あのパン、中身は柔らかくて、焼き面には艶があって、しかもこっちは食べ盛りの10代ときている。もう最高に美味かった!

 ベビーコーラも人気があった。栄養ドリンクサイズの小さなビンで、チロルチョコレートと同じ10円という価格だった。
 このコーラに関して、末原君がこんなことを言っていたのを思い出す。

 「ベビーコーラってさあ、茶色いビンに入ってるだろう? だから色は知らずに飲んでるわけじゃん? だけど『コーラ』っていうぐらいだから当然コカコーラと同じ色をしてると思ってるだろう? ところがさあ、この前コップに注いでみたら、ショック! だってさあ、カルピスみたいに白かったんだぞ。それにねえ、山下が言ってたんだけど、どうも1度に3本以上飲むと、必ず腹を壊すらしいんだよ。下痢をしたとき、何が原因か? と考えてみると、いつも前の夜ベビー・コーラを3本飲んでるんだってさ。それ以外に理由は考えられないって言うんだよ。小さいビンで売ってる理由は、値段を安くするためだけじゃないかも知れんぞ」

 10代前半の男の子特有の、笑いを多く伴った、はじけるような口調だった。
 自分で3本以上飲んで、事の真偽を確かめたことは無かったが、もし、それが事実なら、新聞沙汰になりそうなものだ。しかし・・・、そういう事態が発生することはなかった。
                       
 いつだったか、山下君が、ヨロヨロとフラつきながら、真剣な顔つきで自転車を漕いでいたことがあった。
 「初めて乗った」と呟いていたけど、それにしては、なんとか倒れずに進んでいくので、上手いもんだと思ってしばらく見ていた。
 すると、涼しい顔でのたもうた。
 「嘘だぞ」
 自転車は、突然、風を切って走行し始めた。
                         *
 ベビーコーラの噂は、どうも山下君によって脚色されたものではないかと思われる。かつて噂になった、トイレの花子さんや口裂け女なども、たぶん日本列島のどこかで、同じようにして生まれたのだろう。

 器楽部での表の世界と、下校途中でのクスクス笑いに満ちた裏世界。この2つが表裏一体となって、心理的なバランスが保たれていた。生徒間のこの繋がりがなければ、たぶん早々と器楽部をやめていただろう。

 中学生たちの晩餐は、次第に派手になってゆき、甚だしいときには、調理パン2個にコカコーラのホームサイズをラッパ飲み、なんていうダイナミックなことをするヤツもいた。
 その活躍の主も、我らが山下君だった。
 長身で飄々とした感じの彼の、またのあだ名は馬。体も胃袋も、サイズは大きめだった彼にしても、それだけのモノを胃袋に入れると、当然、克服しなければならない問題が発生する。

 夕食が喉を通らないのである。

 そこで彼が考案した対応策は、こんなものだった。
 家が近づくと、暫く走り、息を切らしながら帰り着き、家族が誰か見ているところで、水をカブ飲みする。食事中に、首を捻りながら「水を飲み過ぎて、食べられない」と呟く。

 しかし、こんなことが繰り返し通用するわけがない。この作戦には、皆腹をかかえて笑った。
 そんな行動を振り返ってみると、例のベビーコーラ3本でお腹を壊すという山下説。ほぼ99%、別なところに原因があったというのが真相だと思われる。

 ある日のこと、会員間でこのような言葉のやり取りがあった。

 「チロル会も、『会』というからには、会長がいてもいいね」
 「なるほど」
 「じゃ、誰がいいと思う?」
 「それは、やっぱり山下しかいないだろう」
 「うん、そうだな」

 こうして、ある日突然、山下君は会長となった。
 ここまでの話でお解りいただけるとおり、彼の風体と巧みな話術、そして人を笑いに誘うパフォーマンスは、全会員の中でも突出しており、会長らしきオーラをたっぷりと漂わせていたのである。

 


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