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「妹のことを話してみたい」(その2)~ 幼少期

 昭和38年。貴美子3歳。幼稚園入園の前年。
 
 小学校3年生だった私の級友たちが、我が家に遊びに来たときのこと。当時、テレビで人気だったアメリカの戦記ドラマ「コンバット」。それを真似た「コンバットごっこ」が男子生徒の間で流行っていた。
 二手に分かれて「だだだだだだ・・・」と機関銃の銃声を真似た口三味線ならぬ口鉄砲で撃ち合いごっこをするという他愛ない遊びで、先にやられたほうは、撃たれる真似をしてその場に倒れこみ、見方が助けにきてタッチされるまで地面に伏せているというルールになっていた。
 車両通行量の増えた現在では、そんなことをするなんて危険極まりないが、当時の鹿児島はまだ自家用車が珍しく、走り回って遊ぶ子供の姿が町中にあふれていた。

 貴美子は、よくわけもわからぬまま、その遊びに加わりたがった。兄の私は、皆の足手まといになるからと、一旦は止めだが、ニコニコと笑みを浮かべて歩み寄ってくる貴美子を、級友たちは可愛がり、年上の男の子たちを真似て、ひときわ甲高く、たどたどしい口鉄砲が周囲に響き渡ることとなった。
 「だだだだだだだだ~ん!」
 どこからか聞こえてきたその声が、今もそのまんま耳に鮮やかに残っている。繰り返される「だ」の数が8個、その高さやリズムが脳内に録音されたかのように蘇る。
 皆、そんな貴美子に撃たれることを面白がり、いつもより大げさなジェスチャーでその場に倒れこみ、そして、3歳児の大喜びの笑い声がはじけ飛んだ。
 そう、貴美子は、完全にその場の主役となっていた。

 当時、貴美子は自分のことを「ボク」と呼んでいた。
 後に本人が語ったところによると、その当時、自分のことを女の子だと思っていなかった。幼児期は、まだ性的には未分化で、成長するにつれて男女に分化してゆくのだと思っていた。男になるか女になるかは、自分の意思により決定され、自分は男になりたいから当然男になるはずだと信じていた。

 夏休みには、神戸の親戚の家に家族で遊びに行った。そこには、私より一つ年上で4年生の「ふみちゃん」と、さらに2つ上の6年生「よっちゃん」という二人の兄弟がいたが、ふみちゃんのほうが、それはそれは貴美子のことを可愛がってくれて、一日中「きみこちゃん、きみこちゃん」と、ほぼ付きっ切りで構ってくれた。
 こんな具合に、貴美子は年上の男の子に対して全く臆することなく、皆がそんな貴美子の無垢な可愛さに惹き付けられてしまうのだった。

 それから3年後、小学校1年生のときのエピソードも面白い。
 歯医者に行ったとき、受付にいた歯科助手さんが、笑顔で迎えてくれた。

 「あらぁ、久しぶりだねえ。一人で来たの? えらいねぇ。あなたのことは良く覚えてるよ。自分の名前を『気高く美しい子って書くの』って言った子だよね」

 そんな具合に、周囲の様々な人たちに「人懐っこい子」として強い印象を残す子だった。

   **  **

 ここらで、両親のことについて少しだけ話しておこう。

 両親ともに高校教師。教科は、父が体育で母が養護。
 自分が2、3歳の頃、両親がどんな接し方をしてくれたのか、ほとんど記憶に残っていない。
 長女の優子についても、年子であったため、幼稚園入園以前となると、ほぼ同様。
 それが末っ子の貴美子となると、5歳の開きがあるため、生まれた頃からのことをよく覚えている。

 私の同級生や親戚のお兄ちゃんから可愛がられたことについては、これまでに触れたが、両親もその例外でなかったことは言うまでもない。

 ある夜、ほろ酔いでご機嫌の父が仕事から帰ってくると、玄関のガラス戸が音を立てた瞬間に、貴美子は大喜びで飛びついていった。
 父はそんな貴美子を笑顔で抱き上げ、膝の上に乗せ、片方のほっぺを膨らませ、幼子に叩かせてあやした。膨らんだほっぺを叩くと、逆のほっぺたを膨らませて、こんどはそちらを叩かせる。そして父親と末っ子貴美子の笑い声がはじけ飛んだ。
 母や同居していた高校生の叔母についても、「せっせっせ」などの手遊びで、楽し気に貴美子の相手をする姿が脳裏に焼き付いている。

 妹に限らず、数多くの子供たちが、幼少期において周りから可愛がられた経験を持つとは思うが、末っ子だったため常に構ってくれる年長者がいて、またそれに対していつも笑顔で反応するので、可愛がってもらう時間が十分過ぎるほどあった。
 そういった家庭環境の中で、「周囲から暖かく受け入れられている自分」という自己肯定的なイメージが形成されていったのだと思う。

 両親ともに教員だったこともあって、「良き生徒」であることを要求され、自分などは、小学校に入学するにあたって、父から「先生の言うことをよく聞くんだよ」と言われたことを覚えている。そういった、いかにも教員らしい要求を、もろに受け止めたのが長男である私であり、小学生時分から、跳ね返し始めたのが、末っ子の貴美子だった。

 叱られて「外に立ってなさい」と言われると、私は軒下におとなしく立っていたが、妹は大喜びで家を飛び出し、そのまま日が暮れるまで外で遊び回っていた。
 幼稚園時代から小学校低学年ぐらいまでの貴美子は、自由奔放なイメージが強く、従順さはあまり持ち合わせていないように見えた。
 
 典型的な長子と末っ子。一般的にその言葉からイメージされる性格の違いが、そのまま私たち兄妹に当てはまっていた。
 寵愛を受けた幼児期が、妹にとって家庭内における蜜月期だったとすると、以後、成長するにつれ、親や兄弟との間には精神的な距離が生じたように思う。
 妹が後に語ったことによると、小学校高学年になると、もう気持ちは外に向かっており、家庭から早く飛び出したいと、常にうずうずしていたらしい。
 私が高校を卒業し、進学のために故郷を離れたのが19歳のとき。幼少期に直接妹貴美子に触れたのもそれまでということになるが、これまでに書いたごく初期を除けば、互いに意識の向かう先は、同年齢の子供たちと形成する小社会となり、末っ子の貴美子が、どんな小学生であり、どんな中学生だったか、ほとんど視野に入っていなかった。
 兄の私の目からは、奔放な面しか見えていなかったが、どうやらそれはほんの上っ面に過ぎなかったようで、後年母から聞いた話によると、付き合い上手ですぐに友だちの出来る子であり、不登校のクラスメイトに毎日電話して励ましていたこともあったという。そのような他人を思いやる優しい心を持っていたことなど、その当時は知る由もなかった。

 私が故郷を離れて後、妹は中学を卒業し、私立の女子高に進学する。その学園生活は、極めて個性的かつ躍動的で楽しいものだったようだが、私がそれを知るのは、妹が大阪の大学に在籍中だった本人の口を通じてということになる。     
 

                      

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