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理系大学生の東南アジアの旅2部プロローグ

皆さんお久しぶりです。僕は理系の大学生院(2024年3月時点)であり、実験やら修士論文作成やらに追われていてなかなかnoteを書くことができずにいました。せっかく修士論文を書き終え修論発表を終えても引き継ぎやら引っ越しやら帰省やらでどうにも時間が取れずにいた次第です。僕は何かを書くときは突発的に書くタイプではなく、ある程度気持ちを落ち着かせたうえで書きたいタイプです。現にこれを書いているときは家でゆっくりコーヒーでも飲みながらだったり、カフェでケーキをお供にパチパチキーボードを叩いています。
そんな僕ですが先日大学院を卒業して会社員になりました。それに伴い関西地方に引っ越し、生活環境は一変しました。僕の現況については後で綴るとして、ここではかつての旅の続編を書く前に、そもそもなぜ旅をするようになったのかも書いていきたいと思います。

キャンパスライフと僕のキャンバス

かつて僕は東南アジアに一人旅をしたことがある。ベトナム、カンボジア、タイ、そしてマレーシアに行ってシンガポールに行って帰ってくるというちょっとしたバックパッカー並みの計画を立てていた (コロナ禍で最後二カ国は訪れることができなかったのだが)。当時の僕は今よりも国際情勢や通信環境、保険など諸々の知識が欠けていたはずであり、それにもかかわらず僕が一人旅を決行できたのは今から振り返ってもなかなか度胸あるな(無知ゆえかもしれないが)と我ながら思う。

世間一般で言う大学生とは、レポート締切日直前に徹夜で執筆し、サークルに所属して友人と日夜飲み明かし遊ぶ金を稼ぐためにバイトもし、恋愛にも没頭してそれなりの性体験や人間関係における挫折、大したことない法律違反を何度も犯し、「あぁあんなことやこんなこともあったな」と卒業する頃には大人ぶって振り返り、まだ眠たげな桜の蕾の前で卒業写真を撮る…というイメージがあるかもしれない。でも、僕は違った。
もちろん入学当初は上記のようなイメージがあり、いわゆる陽キャのような充実したような大学生活に憧れていた。サークルにも所属した。僕は男子校だったから、女の子に全く免疫もなくて、可愛いと思った子にアプローチしにいったこともあるし、バイトだっていくつか経験した。しかし、どれも違った。サークルはどちらかといえば陽キャの人が多かったし、実際は違ったが何も知らない人たちからはヤリサーというイメージを持たれていたようなところだった。スポーツ系のサークルで、時には合宿したり大会にも参加するといった部活的な側面もあった。それが決して悪かったというわけではないが、心のどこでいつも何か違うような気がしてならなかった。サークルに行って帰ってくるたびに心の中に、まるで夏の日の遠景のように霞がかかり自身の本音を掴みきれずにいた。恋愛面もそうだ。同じ大学の可愛い子、バイト先の気になる女性など、今までの人生とは比べ物にならないくらい多くの女性と接する機会が増え、そのうち何人かにはアプローチした。当然ながら結果はお察しのとおりで失敗した。だけど一番は真剣に、恋愛に向き合えていないところが原因だったのかもしれない。詐欺師のような饒舌さもないし、下半身が本体のような男みたいに女性に対して真剣にもなれなかった。女性は世界に何億人もいるし、異性と出会うならば今どきマッチングアプリだってある。あまり褒められたことではないが男女問わず異性というのは買うことだってでき、世界中でそうした商売が展開されている。それに昭和ほどではないが男は経済力や地位などを審査されるわけで、それはある意味異性を金で買っているのと変わらない。つまるところ贅沢を言わなければ異性に会ったり何らかの報酬がほしいならば何らかの手段があるのだ。実際にやろうとは思わないが代替手段が数多く存在しているという現実が、何を恋愛なんかに本気になっているのだと、僕の心に霞をかけていた。




毎日何かが違うと思っていた。僕は本質的には世間の"普通"とは異なっていて、そうした"普通"にどうやっても本気になれなかった。最初に飲食チェーン店でやっていたバイトも辞めたし、塾講も合わなかった。周りのみんなはバイトや恋愛に明け暮れているのに、どうしても本気になれない自分に対して心の落ちどころを見つけてやれなかった。布団の中にくるまりながら、貴重な大学生活が浪費されていく焦燥感に駆られていた。
大学生活はキャンパスライフと呼ばれる。言葉は違うが、個々人がキャンバスに色を塗っていくものだと思っている。サークル、学科、バイトや恋人などを通じて色を塗っていき、それは時に他者との合作になるだろう。僕のキャンバスは多くの人が持つ色とは合わなかったし、キャンバスに適用した僕の絵の具もまた他者には合わなかった。それだけだったのだ

見たことのない景色

ある日僕はテレビを見ていた。何曜日に、何のテレビを見たかも覚えていない。しかしどこか知らない外国の国が映っていたのは覚えているし、それを見た僕は、言葉ではうまく説明できないが、ただひたすらにその光景に惹かれていた。テレビの中には見たことのない荘厳な自然の景色が映されていたし、またあるときは街の中の人達や知らない料理を映していたと思う。まるで印象に残ったかのように書いてはいるが、実際にどこの国のどんなものが映っていたのかは覚えていない。ただ、この世界には自分が全く見たことのない景色があり、文化があり、そして実際にそれを享受している人たちがいるという事実と、海の向こうには本当にその人達がおり、ほんのちょっと足を伸ばすだけでその人達の世界に入り込むことができるという現実が僕を駆り立てた。

僕、外の世界を見たい

日本という島国の関東地方の群馬県の小さな町に生まれ、大学でも東京近辺しか知らず、就職しても東京の近くで働き、地方のことも、外国のこともテレビやネットでしか知らないまま死んでいくのは嫌だ。せっかくこの世に生まれてきて、少し頑張れば世界中どこだって行くことができるのに行かないなんて惨めだと思えたのだ。

その日から僕は知らない国を実際に見たいと強く思うようになった。外国だけではない。日本の豪雪地帯の大雪や沖縄のサンゴ礁、四国の渦潮などまだまだ見たことないところはたくさんある。社会人に比べて時間のある大学生が行くべきなのはどこだろう?もちろん外国だろう。その中でもアジア圏が近く、かつ物価も安い。よし、アジアにしよう。その中でも東南アジアは陸続きで距離も近いからまとめて訪れることができそうだけど、まずは親日国で距離も近くてご飯も美味しいらしい台湾に行こう。

ここまできたらやることは早かった。サークル先の人にはいろんな国を見たいから顔は出せないといい(その気になれば社会人になってからでも参加はできるのだとも伝えた)、資金調達のためのバイトは単価の高い宅配ピザにして毎週末に働いた。海外旅行のためにクレジットカードも初めて作ったし、海外でのスマホの使い方や気候の違いなんかも勉強し、「地球の歩きか方」の台北版を買い、毎日読んだ。そして初めての海外となるのだから誰にも邪魔されずにその景色を堪能したかったので一人旅を計画した。

成田空港発の飛行機を拙い知識で購入し、慣れない宿予約サイトで予約した。観光地の場所も念入りに調べ、公共交通機関も言葉がわからないことを危惧して念入りに調べ、航空券と宿の控えを印刷しておいた。そして旅行当日には暑い夏の日に興奮と緊張の入り交じる中、成田空港に4時間も前に到着したのを覚えている。

これから僕は海外に行くのだ。初めて飛行機にも乗る。日本国内ですらほとんど旅行したことがなかったのに、いきなり海の向こうに降り立つということが信じられないまま搭乗時間を待った。

そして搭乗時間の後、興奮と緊張の中でCAさんの指示に従いながら席に座り、飛行機が動き出した後は僕はずっと外を見ていた。滑走路に飛行機が向かい空港の建物が離れていった。その後飛行機が止まったと思いきやGを感じさせるほどの急加速を始め、次の瞬間ふわりとする感覚と共に飛行機が空に向かい始めた。窓の外の建物や地面がどんどん小さくなっていき、外の景色は段々と"地形"へと変わっていき、いつしかそれは水平線へと変わった。台湾までのフライトは数時間だが、僕はその時間の大半を景色を眺めることに費やした。ただ景色が変わる様を見たり、自分が洋上の空にいる事実を楽しみたかった。

普段から飛行機に乗っていたり、子供のころから海外旅行に慣れ親しんだ人からすればなんて馬鹿げたことを言っているのかと思うかもしれない。ただ思い出してほしい。初めて自転車を手に入れたり、車を運転したときのことを。自分の知らないところに行けるようになった興奮があったのではないだろうか?遠くに行けるようになった感動があったのではないだろうか?
初めて何かをした時の、興奮と感動を忘れないでほしい。

台湾の景色が見えてきたとき、緑の色が微妙に異なっており、土の色がやや赤みがかっていることに気づいた。道路には車が走り、建物がそびえ立ち、そこに人が暮らしていることが分かった。ただ上空から見ただけではそれはただの"景色"であり、一刻も早く街の中に行きたかった。
着陸後には初めて見る海外の空港に驚きながら、拙いやり取りでICカードを買い、スマホで宿の最寄までの駅を調べた。そこかしこにある見たことあるような無いような漢字表記に戸惑いながら電車に乗り、窓の外の熱帯植物を眺めた。電車内は観光客なのか国民なのかはわからないが、アジア系の人たちがごった返していた。しかし宿の最寄り駅は中心から少し外れていたためか降りるときには人は少なかった。東京のように屋外を走っていた電車はいつの間にか地下に入り込んでいたようで、駅から出るためには階段をいくつも登らなけらばならなかった。外の光と喧噪が地下に入り込んでくる中僕は台湾の街へと登っていった。

階段を登りきると一気に台湾の街の明るさと喧噪が僕を囲んだ。道路の交通状況も日本とまるで違うし、車の色合いや乗っている人たちの仕草も違った。台湾では八角を使った料理が有名だが、どことなく八角のにおいのようなものが感じられた。駅から出た通り沿いにはお店がいくつも並んでいて、東京でも見かけるような食べ歩きスタイルができ、僕はそこで初めて胡椒餅を食べた。

胡椒餅は台湾スタイルの肉まんであり、文字とおり胡椒で味付けした肉まんだ。タンドールのような巨大なかまどのようなツボみたいな形のオーブンで焼かれて出てくるため、皮はカリカリで噛むと肉汁が溢れてきてとても美味しかったのを覚えている。日本では各地で開かれる台湾フェスや中華街で食べられるものだが、僕は台湾の地で初めて胡椒餅を口にした。これ以来僕の大好物の一つであり、台湾フェスがやっているとついつい買ってしまうものになった。
他にも台湾にはいろいろな料理があった。ルーローハンに牛肉麺、ミルクやマンゴーのかかったかき氷、ヤシの実のジュース、サトウキビジュースにジーパイ…。どれも日本ではなかなか食べられないものばかりで、今でも恋しくなって台湾料理屋にわざわざ食べに行くこともあるものばかりだ。

ホテルでゆっくり過ごしたあと、台湾で有名な九份や十份、中正記念堂や淡水老街に訪れた。九份は千と千尋の神隠しなどで有名なところであり、十份は灯籠で有名なところだ。近くには炭鉱の施設があったり、猫村があって面白かった。中正記念堂では台湾の歴史を学べたし、淡水老街は港町できれいな夕焼けが見られた。
残念なことに当時使っていたスマホが急に壊れてしまってバックアップもままならず写真がなくなってしまった。ただ僕は生まれて初めて海外の土地に降り立ち、知らないものを食べ、知らない景色を見ることができたのだ。台湾で初めてのものを体験した感動は今でも覚えているし、僕の中に生き続け、今の僕を形つくっているのだと思う。

これからの僕

当時の僕が台湾で嫌な目に遭っていたら、僕は二度と国外に出なかっただろう。でも僕は、日本では絶対に見ることができない景色を見ることができたし、初めての経験をいくつもした。あの感動は恋愛でも、キャンパスライフでもできなかったはずだ。
これからの僕は社会人となり、気軽に海外に行くことは難しくなってしまった。しかし僕の会社は比較的有給は取りやすいと聞いているし、連休と連休の間に有給を使う人も多い。その休みを使えば海外に行くことはできるだろう。まだ行ったことのないインドネシアやフィリピン、中国にも生きたいし、ヨーロッパ諸国にも行けるかもしれない。仮に難しくても、日本国内でもまだまだ行ったことのないところは多い。僕はこれからも時間を見つけて知らない景色を見に行くつもりだ。
もちろんnoteはこれからも更新するつもりだし、旅行以外の趣味もどんどんやっていくつもりだ。最近は釣具も買ったし、車もあるのでドライブして遠出することも趣味にするつもりだ。だからこれからももう少し、僕のnoteに付き合ってほしい。
それでは、また次のnoteでお会いしよう。マレーシアとシンガポールに訪れた経験も書かないとな。ではでは、さようなら。

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