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無知な僕が不謹慎発言していた話

何かと話題になっている東京オリンピックですが開会前に、いや開会式前日に辞任が起こるという前代未聞の出来事が話題になっている。

例えば小山田圭吾氏の過去のいじめ問題だけでも話題になっているし、電通の佐々木宏氏の渡辺直美さんの容姿を侮辱する発言が問題になり辞任に追い込まれた。

小山田氏や佐々木氏だけで大きな問題といえるだろう。ネットでも連日話題になっている。

特に佐々木氏に関しては開会式をぶち壊し、多額の税金を無駄にしたということで個人的に非常に腹が立っている。

今回の東京オリンピックでは不祥事が非常に多く5チャンネルでは不祥事をまとめた打線が組まれているほどだ。

確かに聖人君子なんていないし、問題の無い人間なんていないだろう。

渡辺直美さんの容姿をバカにしたといっても、彼女は芸能人であり見た目を売りにしている以上そうしたことは避けられないはずだ。そもそも言葉は悪いがデブがダンスをキレキレに踊ってるからうけているという側面がある以上彼女を見ている僕たちもある意味では彼女をバカにしているのであろう。

美男美女がキレキレのダンスを踊るよりも彼女の方が受けがいいのだ。。

念のため断っておくが渡辺直美さんのことをバカにしているわけではない。

というかデブ、ハゲ、ブサイク、毛深い、ガリガリの芸能人を笑ったことがあればそれは差別しているということなのか?見た目を売りにするのは立派な戦略のはずだ。当人が良ければいいのではないか?万が一佐々木氏の案であった渡辺直美さんが豚に扮する様子が開会式で大うけしたらそれは差別ではないのか?事前に出回ったから差別なのか?

結局嫌に思うかどうかは当人が決めることだ。外野の人間がうるさく口を出すようになったことで笑いのハードルが高くなっている気がする。

当人は気にしてなくても外野が口を出すことで迷惑するのは差別をされたとされる人、なんて現象は本末転倒だ。

とにもかくにも世の中は悪い意味でネットのおかげで広く窮屈になってしまったと思う。ああ言えば不謹慎だ。こう言えば差別だ。配慮をすればつまらない、なんて言われてしまう。

きっと不謹慎だとか差別だ、とかいう人はその問題を身近に感じているからそう言ってしまうのだろう。身近だから気にしているからこそ怒るのだ。

現実の事件と類似した出来事があればアニメや漫画が表現を規制されるのもその類であろう。

ここで身近ではないからこそ不謹慎な発言ができることの例として、僕の経験を紹介したいと思う。人に話したことはないがこれを読んだ人の考えに変化があればいいと思う。

中学生のころだった。僕と同じクラスのA君の話だ。僕は当時サッカーをしていたのだが彼はラグビー(もしかしたらアメフトだったかもしれない)をしていて、学校に部活はなかったので外部のチームに所属していた。やはりというべきか、足はとても速かった。僕も足は速い方だったが体育の記録では僅差で勝ったり負けたりだったのを覚えている。正確には僅差といえ負けの方が多かった。

あるとき彼は事故に遭う。車に轢かれたのだ。中学生とはいえスポーツをバリバリにやっていたのによけられなかった?詳細は分からないが自分よりも大きな鉄の塊が急に迫ってくれば人はよけることができないのだろう。実際の事故では曲がり角を急に曲がってきた車に轢かれたという。避けられるわけがないと思った。

そして彼は学校に来なくなった。しかし重傷を負い今は入院中だが生きている、命に別状はないとの話が担任からされた。

いくら中学生とはいえ自動車事故で人が亡くなること、障害を負うことは当然わかっていた。しかし僕は知識として知っているだけだったのだ。


ある日学校で友達と会話になった。

「そういえばAのやつ車に轢かれたんだって?(笑)」と言われ、

「ああ、とうとうくたばったらしいぜ(笑)」と返した。

どうせ死んでなんていない、轢かれちゃった痛ってー(笑)みたいなテンションで戻ってくると考えていたからだ。

ちょうど近くをあまり話したことのないB君が僕のことを睨んで行った。不謹慎だと思われたんだろうか。特に気にはしなかった。

だが数か月が経ち彼が久しぶりに戻ってきたときに驚いた。手に障害が残り、言葉を話せなくなっていたのだ。顔にも障害があるようだった。重度の障害により彼はめったに学校に来なくなったし、続けていたスポーツも辞めざるを得なかった。だけど考えることはできるようで、僕やほかのクラスメートのことは覚えていてくれていたようだ。話せないから、震える手で筆談でほかの人と意思疎通を図る彼を見ると心が痛んだ。

偶然A君のそばにB君がいるのを見かけ、ほかの人に聞くとなんと同じチームで活動をしていたのだという。僕はその時に悟った。

B君が僕のことを睨んだのは知っていたからだった。A君の事故の詳細やその有様を。同じチームで共に活動し、心通わせた相手がどうなってしまったかを知っていたのだ。何も知らないただの同じクラスだっただけのやつが、A君のことを「くたばった」とか冗談でも言ったのを聞けば腹が立ったはずなのだ。


僕はそれ以来時々学校に来る彼を避けるようになった。もちろん、B君のことも。クラスが変わったとかそういうのではない。ただ彼らの目を見て話せない自分がいたからだった。

僕が中学生のころはドラマのガリレオをやっていて、そのせいで筆談をするA君のことをガリレオだなんて囃し立てる人がいたけど注意する気にはなれなかった。僕も彼らと根っこのところが変わらないからだった。

今でも車を乗るときや、事故の話を聞くとA君のことが思い出されるのだ。中学生のあの日から僕には自動車事故が身近になり、その障害の重さが知識ではなく体験へと変わった。だからこそ僕は自動車事故のことについて、小ばかにするような発言等には苦々しく感じてしまうのだ。


最初の方で述べた、著名人たちの失言は身近ではないからなのだ。彼らの失言だけでない。僕たち日本人も外国の人種差別や移民問題、環境問題を知らないからこそ好き勝手言えるだ。

傍から見たら肌の色なんて関係なく日本人は外国人を外国人とくくって扱うが彼らは違う。黒と白の間には複雑なバックグラウンドがあり、さらにその中に政治や宗教、国柄も絡んでくる。環境問題もそうだ。ただ環境を破壊しているだけではない。その背景には生活、経済、金、権力が複雑に絡んでいるのだ。

結局僕たちがするべきなのは多くのことについて学ぶことだ。政治、環境、経済、科学、など多くのことを学び自分にとって身近なことにすれば、先の著名人や僕のように失言や、不謹慎な発言をすることが無くなるはずだ。それに多くのことを知っていれば会話の引き出しも増えるし人間性に深みも増すし、決して悪いことではない。

知らないことだと放っておかないで僕も、そしてこれを読んでくれている人も学びの機会を増やしていってほしい。


今回は今までの記事の中では打って変わってまじめなものでしたが、読んでくださってありがとうございました。



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