戯れ
わたしは、あまり「寂しい」という気持ちがわからない。
寂しさは
本来あるのものの存在が欠けていて、心が満たされないこと
という意味があるらしい。
寂しさと向き合った時に負けたことがないか
もしくは、本来あるものの存在に気がつけていないのか。
悲しいや切ないと言った感情はわかるが
寂しいという言葉にはどうもいつも違和感を感じてしまう。
気持ちの表現の一部として「寂しい」という言葉を選ぶことはあるが、実際に寂しくて寂しくてたまらないとなったことがない。
どうしても自分の中でこの言葉で気持ちを表現することに抵抗があるとも言える。
これは、自分がポジティブなマインドを心掛けようと思うよりも以前に感じた感情だった。
ここの部分がどうも疎く、可愛げのない女だ。
いや、可愛げのないと言ったら語弊がある。
それなりに重く女々しく面倒な所もある。
寂しいならば自分の好きなことに没頭したり
好きな音楽に浸ったり、手を動かしたり耳から情報を得ることで解決ができるのだ。
間違っても人肌恋しいからという理由で、どうでも良い相手と肌を重ねるなんてことはしない。
しかし、包み隠さず言うと好奇心で遊んでみた事くらいはある。
ただ、わたしには合わない遊びであったことは確かだった。
寂しいから触れ合う?
こんな戯れの何が楽しいのかイマイチわからなかった。
それから気がついたことが恋人がいないとなると、あまりにも自分の欲求が淡白であるということ。
そうか、もしかしたら本来自分はあまり
人との触れ合いに重きを置いていなくて
思っているよりも恋愛に対しての感情が薄いのかもしれない。
いや、過去の恋愛下手な自分から逃げたいからなのかもしれない。
それよりも自分の夢ややりたいことを優先しているのだと気がついたのだった。
人を好きになったこともその中で狂おしいほど好きだと思ったこともあるが、なぜなのだろう。
あんなに一途に何年も思い続けられていたこともあるのに "手に入らないのか" と思えば大人になるほど諦めてしまう癖がついてきてしまったのだ。
ちょっとのすれ違いで感情をぶらされて、やりたいことに手がつかなくなる方が嫌になっていく。
ある人は言う。
「自分を幸せにしてからじゃないと他人のことは幸せにできない」
わたしが関わってきた人の中で実際に言われて、かなり衝撃的な言葉だった。
まだ人に甘えていたくて、流れ着くままにぷかぷかと浮いていた頃の自分には全く理解ができなかった。
人の幸せも願えないのか?と解釈し、自己中心的な発言だなとこの言葉に対し、批判的になっていた。
だけど今は違う。
人間、結局自分が一番可愛い生き物。
自分が幸せと感じないと心に余裕もないし
的確な言葉も行動も出来ないのだ。
今の自分はたしかに幸せではある。
その反面、もっともっと高みを目指していきたいと、もがき、悩んでいる自分がいるのだ。
そんなことを思っていると常にこれをしたい、あれをやりたいと脳内はぐるぐると計画が巡られていて、寂しさの入り込む余地がない。
それと同時に他人の幸せよりも自分のことを必然的に優先してしまう。
何故か今は、あの言葉の意味が痛いくらいにわかる。
自分に重きを置いているようだが、もちろん人のこともちゃんと幸せにしたい。
出来ることなら自分の幸せゲージがMAXになったその瞬間に胸を張って貴方のことを一生愛すと宣言し、終わりのない愛を誓う。
そういうことだったのだと思う。
心底わたしは馬鹿な女だと思う。
だから無駄な感情が湧き上がる度にその感情とはお別れの選択をするのだ。
寂しさがあるならそれを他人で埋めたりはしない。
寂しさは、きっと受け止めてくれるその人へ移ってしまうし、そんなに悲しい出来事を見るに堪えない。
だからわたしは自分と向き合ってやりたいことをやり続け、幸せだと感じる方へ進みたい。
それが自分の一番の活力であり他人へ優しくできる方法の一つだと感じるから。
me.
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