両親が他界した話。(コロナ禍でオープンしたカフェも1年経ったので振り返りその1)

コロナ禍2020年7月30日にオープンした、下北沢に住む姉妹のお菓子屋さんとカフェ「シモキタシマイ」。1年経ったのでここまでの道のりをサマっておこうかなと。その1。カフェと全然関係ない話、シモキタシマイの序章すぎる話です。ちなみにめちゃくちゃ長いです。

”下北沢に住む姉妹”と言いつつも、この1年で姉は結婚して中目黒に住み(毎日お店に出勤しているので時間で言えば住んでいるようなものだけど)、ライフスタイルにも変化があった1年でありました。


さて、遡ること4年前の2017年。癌と戦いつつ現役で製菓と料理の仕事をこなしていた母の容体がいよいよ芳しくないということで、私は新卒から勤めたコンサルの会社を辞め、土日休みが確定している広告の会社に転職。平日は会社員・土曜日は製菓学校・日曜日は母の営む洋菓子店を営業する、という3足の草鞋生活をスタートさせました。この1年は記憶がないくらい忙しかったのだけど凄く楽しかったな〜。でも凄く大変すぎてもう一回は絶対できない。人生が1度きりで良かった。

”自分から学びたいと思う気持ちが芽生えた”ということと、”まとまったお金をダン!っと払う経験”は大きかったです。特に学生時代荒れてた時期がある私にとって自分から学校に通いたいと思うなんて。人って変わるよなぁ。


1年制の製菓学校を修了した2018年3月。もう母が長くないことは何となく感じていて、ただ母のことを好きすぎた父は最後の最後まで諦めたくなかったのか詳細はなかなか私にも姉にも話してくれなかったけど。一方で母は正直な人なので何でも話してくれて、とにかくもう長くはないんだなということだけはぼんやり分かりました。ん〜分かっていたのかなぁ。。なかなか人が死ぬって想像は出来ないよね。

6月に結婚式を予定していましたが、そこまで生きられるか分からないということで、別途4月に身内で結婚式を挙げることに。

身内って言ってもどんどん人が集まり100人を超えてしまいました。母に会いたい人が沢山いる証でもありました、嬉しかったな。お祝いは人が多いほど盛り上がるものだからね。
この時は既に終末医療の施設に入院していたので、シンプルな挙式のみでトンボ帰りでした。

私はキリスト教徒ではないけれど、通っていた幼稚園がカトリックで教会が併設されていたので神父様に直談判しに行ったら快く挙式を開いてくださいました。お手伝いしてくれた幼稚園のお友達たちにも感謝でした。

今思うと父ともヴァージンロード歩けてよかった。

悲しかったり切ない顔するお父さんが多いらしく、こんなニコニコしたお父さんは珍しいらしい。

で、本当に母の命は長くありませんでした。
挙式の3日後に母は病床洗礼を受けました。洗礼を受けると今までの罪が全て精算されるらしく、病床で洗礼を受ける人は多いらしい。母は私の挙式に参列した際、神聖で温かな光に包まれた教会に”ここにずっといたい”と思ったそうです。

洗礼は挙式の際に登壇してくださった神父様(めちゃくちゃ良い方でした)が病室に来てくださって和やかに行われました。母の表情が穏やかすぎてもう飛び立ってしまいそうに優しい目になっていたので、私の挙式が母の他界へ背中を押してしまったのではないかと結構切なく思ってしまいましたが、母がとても嬉しそうだったので結果良かったです。
名前は好きだったマリア様からお名前を借りてマリア・ルルドに。フランス行かなきゃだよね。


母が洗礼を受けた3日後に、なんと父が亡くなりました。父に関しては持病もなかったし本当にびっくりした。毎日血圧測って記録するくらいマメだったしね。毎日欠かすことなく何十年も記録し続けていたけど亡くなる2日前からは空欄でした。
この頃、姉も母の症状を知ってカンボジアから一時帰国していたのでお見舞いの毎日でした。
その日も父と姉と私の3人でいつものように母のお見舞いに行き、病室に到着してから30分後くらい。急に胸を押さえて「まな、牛乳…」と言って廊下に飛び出しました。そして大きなイビキをかいて倒れてしまいました。姉と私は夢中で背中をさすったりベルトや首元のボタンを緩めたり。イビキをかいているから生きてはいるだろうと思いながらも、急に変わり果てた父の姿と周りの看護師さんたちの慌てふためく様子から、ただごとではないことが分かりました。死前喘鳴と言って、死ぬ直前、舌が落ちてしまって唾液や分泌液を吐き出すことが出来ずイビキのような音になってしまうんだそうです。無知って怖いよね、そんなの知らなかったよね。

終末医療の施設だったので救急処置の設備が少ないということで救急車に乗って大きな病院へ。倒れた時点でもう助かるものではなかったみたい。イビキはとても辛そうだったけど本人が自覚する苦しい時間はほんの数秒だったみたいだから、それはせめてもの良かったこと。痛いの大嫌いだったからね。

救急の先生は死を見届けることが多いからか、そして気持ちを入れると遺族にも影響が及ぶからだろうけど、めちゃくちゃ淡々と亡くなったことを告げました。「ご遺体を一緒に拭いていただくので下のコンビニでパジャマのLサイズ買ってきてください」って。それどころじゃない気持ちだけど妙に耳に入ってきて覚えてるもんだよね〜不思議。
倒れた場所と死亡確定の場所が異なるからということで警察の取り調べを受けたりもしました。
そうそう、「まな…牛乳」が最後の言葉だった父なのでお墓参りに牛乳は欠かせません、モ〜。


母の命も一刻を争う形だったので、姉と2人、新宿から普通に電車に乗って母の病院に戻りました。ずっと喋ってた気はする。自分たちのことだけど2人とも強いし偉いよね。苦笑。

少しだけ迷ったけど、母には父が亡くなったことを報告しました。母も意識が朦朧としている時間がとても長くなっていたけどきちんと理解して、「嘘…」と言いながらも「早くお父ちゃまのとこに行きたいわ」と言っていたので報告したのは正解でした。その報告を境に母は意識朦朧で普通の会話は一切成り立たなくなりました。

父の友人から聞いた話。母が可哀想だから”三途の川を先に渡って待ってやりたい”と言っていたらしい。父が亡くなった3日後に納棺の儀という三途の川を無事に渡れるように死装束を着させてお棺に遺体を納める準備をするのですが、その準備を終えた日の夜に母が亡くなりました。どこまでも用意周到な父でありました。

不幸だか幸いだか分からないけど、父も母も生きている状態から死んだ状態までの経過を見れたわけなんだけど。生→死って時間の振り幅はあれどグラデーションがあって。動いてたものが動かなくなった瞬間の物体としての存在感と圧が深く重く増す感じ、忘れられないなぁ。怖いとかは全然なかったよ、むしろ綺麗すぎてさすがに涙は止まらなかった。

我が家は一般的な仏教ですが、母が病床洗礼を受けたということでキリスト教徒になっているので、お葬式はどうしようかということになり。住職さんも神父様もとても理解のある優しい方達だったので、仏式でお通夜・告別式・教会で追悼ミサ、という異例の3daysを開催したのでした。音楽フェスみたいになってしまった。

父も母も生涯現役でバリバリに仕事をしていたし、本当に人望が厚かったので延べ3000人の方がお式に参列してくださいました。姉と私の友人も沢山来てくれて、恵まれてるよね。お葬儀屋さんもこんな式は見たことないですよってびっくりしていました。参列者に3000回頭を下げる私たちを思いやって休憩しましょうと何回も声をかけてくださったけど、3000回頭を下げて3000回会話をして良かった。こんな多く人たちに感謝され、涙を流されるような人生を歩んだ両親のことを心から尊敬します。(そして握手会するアイドルってまじで凄いな…)

ちょっと性格悪いけど、著名人が亡くなってお葬式に◯名が参列者されました、みたいなニュースみると、私の両親は3000人も来たぞ!って思ったりはします。思うだけならいいよネ。いや、書いちゃったけど。

で、3days開催後の翌日。まずはお香典返しのリスト作り。3000人分のお香典袋に書いてある住所・名前・電話番号をひたすらエクセルに入れていく作業。これが意外と業者とかなくて手打ちしか選択肢がなかったのだった…。そして亡くなった後の手続きやら相続の手続きやら保険の手続きやら銀行の手続きやら証券の手続きやら(2人分あるからまじ大変)…毎日銀行と区役所を行ったり来たり。
本当に大変すぎて時間もかかりすぎて、税理士さんに依頼することと会社員を続けることを天秤にかけたら自分で巻き取った方がお金的に良さそうだったこと。(相続の手続きをカンボジアに住む姉の分も代行していたんですが、私たちはたまたま仲の良い姉妹で本当に良かったと私も思ったし、何より各手続きの担当者さんが1番思ってた。世の中には色んな人がいるらしいからね...)

あと母が生涯現役だったこともあり、亡くなった翌週から注文のオーダーケーキがあったり連載の撮影があったり。色んな仕事を引き継がなければならない状況もあったので会社を辞めることに。(新卒の会社もだけど会社員生活は本当に楽しかったしなんの不満もなかったな〜何なら私は結構会社員で活躍する人生が向いていたとすら思う。なんてネ。)

そこから、手続き系の作業と遺品整理、お菓子屋さん「FUMIZKITCHEN」、色んな事情でフリーで広告業の仕事も少ししながらてんやわんやな1年がスタートするのでした。中でも本当に大変だったのが(というかまだ終わってない)遺品整理。もうこの壮絶さはyoutubeにもあげました。


遺品整理で軽く100万円は使ったんじゃないかな。軽くね。本当に大変だった〜。だって3年たった今も終わりきれないくらいだもん。
4世代分のお片付けを一気にしたわけだけど、顔も名前も知らない人の通信簿とか夏休みの宿題が出てくるわけで。でも無下に捨てることはできず、全てスキャンでデータ化して捨てていくという作業を延々と。もう嫌でも4世代分のご先祖様たちは成仏されたでしょうね、絶対!残すというのは罪深いということが身を持って分かったので、もともと私はモノに執着0なタイプだけど、結構モノを残しておきたい姉も遺品整理を経験してミニマリストに目覚めました。やったね。

そんな感じで両親の他界から1年を走り切りました。時には下北沢のワインバーをお昼間借りしてランチ営業してみたりと頂いたご縁でチャレンジもしながら。有り難いよね。

姉はというとカンボジアで仕事をしていて2019年の夏に日本に帰国。帰国する時期は分かっていたので、戻ってきたタイミングで2人で何かしようというのは話はしていました。私たちの人生で起きたことが一般的に劇的だとは決して思わないけど、みんな各々に劇的な人生のストーリーを送ってるからさ。ただ、間違いなく自分たち視点では両親の他界が人生の超大きなイベントだったわけで、今後の人生への考え方とか生き方とかマインドセットされた部分はあるよね。
で、姉が帰国して「何かをしよう」という話し合いが本格的に始まったのでした。

そうそう、「何かをしよう」の中にyoutubeがあるんだけど、笑っちゃうよね。両親が他界してから、毎日忙しかったけど会社も辞めちゃって基本的に1人きりだったからyoutubeには凄く助けられたんだよな〜。自分より5つも7つも歳下の人のyoutuberに本当助けられました。で、youtube見てるうちに、「絶対のりちゃん(姉)やるべきじゃない?」と思ってしまい。私が言うのもなんだけど、姉は本当に面白い人なのね。別にギャグがあるとか芸人っぽいとかでは全然ないですよ。ただ、なんか面白いんだよな〜動いてたり喋ってるだけなんでけどね。で、絶対youtube向いてるよ!って思ったけど姉は全然youtubeを知らなかったから手当たり次第面白い動画を送って、姉も単純だから(決してバカにはしていない)見てハマってくれて。姉にyoutubeを持ちかける時にちょっとでもやり方とか把握しておくべきだよなぁと思ってあげた1本目がヘアビューロンのレビュー動画で何故だかバズって13万回くらい回ったので、これはやっぱりやってみた方がいいんじゃないかと思い、今に至る。

本当は海外と日本を行ったり来たりしてVlogみたいにして仕事(まずはカフェ)に絡めていきたかったんだけどコロナに。こればかりは仕方ない。でもいつかを夢見てチャンネルが死なない程度にゆるーく。クメール語講座を中心に撮れるときにアップしています。奇跡的に収益化してるので、ゆっるゆるだけどまだやるかなぁ。チャネルは少ないよりかは多い方がいいと思ってる派なので。


余談。6月には当初の予定通りに結婚式を挙げました。5月にお葬式3daysを開催した翌月だったけど、私はメンタル強いみたい。情緒は常に安定していました。元からメンタルが強い自負があったんだけど、さすがにヤラれるかなと思い、
①2日1度は友達に会う予定を入れる(仕事関係でも良い)
②毎日お風呂に入る
③毎日朝イチメイクをして着替える
を徹底しました。ちなみに私はお風呂大好きなので入らない日なんてないんですが、お風呂に入らなくなったり連日パジャマで過ごすようになるのが精神に異常をきたしてるサインだとどっかで読んだから。これ書いてて思い出したけど確かに2日に1度友達に会ってたな〜有り難いよね、まじマイメン。

結婚式の打ち合わせって普通数ヶ月に渡って行うものだけど、私たちはとにかく時間がなくて打ち合わせは1日に詰め込んで色々決めました。でもとてもいい結婚式になった。皆んなのお陰です、感謝。しきれない。


さて、あまりにカフェからかけ離れた序章になっちゃったけど、その2からはカフェについてちゃんとサマる。そもそもこんなに長文でサマってるとは言えないね、まぁいっか☺️

なんで「カフェ」になったのかとか、スイーツやお料理のこだわりとか、法人化した経緯とか。私自身忘れないようにめちゃくちゃ長文でも残しとこうと思ったから残そうと思う。やっぱりやってる当時に、"めちゃくちゃインパクトある!"と思ったことや考えたこともあっという間に風化されちゃうからね〜。

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