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9.11同時多発テロから学んだメディア論〜IT革命のターニングポイント〜


どうもどうも、吉良です。

9月11日、と言えば2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を思い出す方も多いのではないでしょうか。日本人24人を含む2977人が犠牲になった史上最悪のテロ事件、今年9月で22年が経ちました。

その2001年以降、僕はニューヨークに行けていません。
ニューヨークだけでなく大都市にすら近づいていません。きっかけは「アメリカ同時多発テロ事件」でした。今回はこの経験についてお話ししたいと思います。

僕は同時多発テロの前々日の2001年9月9日にマンハッタン島に到着しており、新たな店舗スタイルのヴィレッジヴァンガードやワールドトレードセンターの近くを回り、自由の女神像を見たり、五番街の撮影やファッション雑誌の話を聞くなどの仕事をこなしていました。

10日の昼には大好きなブロードウェイミュージカル「コンタクト」を観に行っていました。同公演がトニー賞作品賞など、4部門を受賞した翌年だったため絶対に観に行きたかったのです。劇場はセントラルパークにほど近いリンカーンセンターと記憶しています。

その後、僕にとってミュージカルとの初仕事になったオフブロードウェイの「The Fantastics」の劇場を訪ねたりしました。その時テロ前日のワールドトレードセンターを背景にした写真も撮っていました。

その日の夜にはNYヤンキースの試合を観にヤンキースタジアムまで行きました。日中はとても暑い日で青空が広がっていましたが試合開始直前から驚くほどの雨が降り、大リーグは滅多に中止にならないと聞いていましたが、この日の試合は中止になりました。

その後、雷雨はおさまったのでマンハッタンの夜景を見ようとブルックリン側からのワールドトレードセンターの最後の姿を見て、ホテルに戻りました。

この大雨で飛行機のダイヤも乱れ混乱が起きていたことは、残念ながらテロリストたちにとって好都合だったのだと聞いています。

そして2001年9月11日現地時間8時46分40秒に、アメリカン航空11便はニューヨーク市のワールドトレードセンター北棟に激突しました。

その日、僕は10:00からの打ち合わせのために8:45にホテルのロビーに出ていきました。時間が経つにつれて周りが騒々しくなっていくことは感じましたが、僕は何が起きていたのかがわからなかったため予定通りに仕事に向かいました。

打ち合わせをおこなう出版社に向かう途中に横目で見たワールドトレードセンターからは煙は出ていましたが、まだ崩壊はしていませんでした。

予定通りに打ち合わせは始まりましたが、出版社サイドも「何か大変なことがアメリカで起きている」という情報がたくさん入ってきている状態で、もはや打ち合わせどころではなくなっていきました。こちらはまったく情報がなく、何が起きているのか全くわからず不安な状態でした。

外に出るとサイレンが鳴り響き、たくさん消防車が集まっていて大変なことが起きていることはわかりますが、メディアも機能していない状態で、全く正しい情報が入ってこないのです。
日本は、まさにゴールデンタイムの21時46分だったのでオンタイムで映像がテレビで報道されており、日本にいる人々のほうが何が起きたのかを知っているような状態だったのではないかと思います。

なんとなく僕が状況を知ることができたのが、12:00以降でした。12:00からクライアントさんとランチにロシア料理を食べていました。しかし、12:30頃に戒厳令のようなものが出て、ランチは中断。緊急でホテルに戻って1歩も出られない状態になりました。

恐怖を覚えたのはこの時からでした。
ホテルのテレビを付けると、どのチャンネルでも飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んでいく映像が延々と流されていたのです。

この経験から3つのことが重要だと感じました。
メディアリテラシー、メディア、エンターテイメントとまちのイメージの3つです。それぞれについてお話ししていきたいと思います。

【1】メディアリテラシー

メディアリテラシーとは何でしょうか。
総務省では下記の3つを構成要素とする、複合的な能力のことと定義しています。

1.メディアを主体的に読み解く能力。
2.メディアにアクセスし、活用する能力。
3.メディアを通じコミュニケーションする能力。特に、情報の読み手との相互作用的(インタラクティブ) コミュニケーション能力。

総務省 放送分野におけるメディアリテラシーより

このような非常事態で特に必要になってくるのは③です。

2011年の東日本大震災を経験した方も多いと思いますが、その後、テレビで津波の映像が流れる際に『これからのVTRには津波などの映像が含まれます』という表記が出てくるのを見たことがあるのではないでしょうか。

このような配慮をすることが非常に大切になるということです。

実際にその場にいたり、身内に被災者がいた方はもちろん、いなかった方であっても、そのショッキングな映像が繰り返されることはトラウマとなったり、恐怖心をあおられたりと、心に大きな影響を与えることになります。

メディアは、国民の「知る権利」に応えることも重要ですが、心理的ストレスから人々を守るという意識も持たなければならないということです。

実際に9.11の際は、発生の翌日から事件時の映像は大きく減っていました。

また、大きな事件・事故、が起きた際は、日本では、テレビ広告CMが大幅にカットされて「AC(公共広告機構)」のCMにさし替わります。有事に楽しそうな明るい雰囲気のCMを流すことはそぐわないとスポンサーが放映を辞退するからです。
新聞でも同じように広告減段と呼ばれる広告の掲載範囲が狭まる事象が起きます。

このような状態になると、心の拠り所となるような楽しい情報がなくなります。もしあなたが通っている学校・職場から出られなくなり、その原因となった事件の情報以外が入ってこなくなったと想像してください。それが1週間以上続いてもめげない方はほとんどいないと思います。

良識をもったメディアの使い方が求められますね。

【2】メディア

当時、マンハッタン島の中にテロリストがいるかもしれないという非常事態状態のため、マンハッタン島に出入りするための橋がすべて封鎖され軍・警察・消防・援護物資等以外は制限されていました。

メディアも制限されていたため新聞・雑誌が外から届くことはなく、物理的な情報の拡散ができなくなっていました。まさに当時主流だったマス4媒体の弱点が露呈した瞬間でした。

パソコンも携帯電話も持っている人がほとんどいない時代だったため、ネットニュースなんてものはなく、情報を得る手段はほとんどありませんでした。

僕たちはたまたま一緒にいた出版社の方がパソコンを持っていたためメールが使え、僕が国際携帯を持っていたため電話が使える奇跡的な状態でしたが、それでもバッテリーがすぐ切れてしまったり電波がうまく飛ばなかったりと満足に使える状態ではありませんでした。情報を得ることはおろか、自分が無事であることを日本に伝えることもままなりません。

それにより我々のチームの安否を日本に伝えるのにテロ発生から6時間ほども要してしまいました。家族はテロ発生直後から僕の携帯、ホテルなどに電話をかけ続けていたらしいですが、まったく通じなかったため、テロに巻き込まれたと思っていたみたいです。

電話が日本時間深夜3時に繋がった瞬間、妻を始め当時中学生の長男、小学生の次男、長女も起きていたようで「パパ生きてた!」というその時の家族の声以上の空気感と自分の存在感はその後一度も味わったことがありません。笑
SNSがあったら絶対にこのような事はなかったわけでまさに、同時多発テロは一気にメディア革命を加速させたと言えます。

Windows95が1995年にリリースされ、yahoo!が1995年にサービス開始、Googleが1998年に設立されました。プラットフォームは完備されていても2001年の段階ではそこまで生活に浸透しているものではありませんでした。

さらに、2007年までiPhoneはこの世に存在していません。この20年でITが大きく成長し、SNSを含め、なくてはならないものにまで普及したのは同時多発テロの影響が少なくなかったと思います。まさに、その瞬間を体験できたとも感じています。

【3】エンターテイメントとまちのイメージ

「エンターテイメントは死なない」という言葉とともに、ブロードウェイはテロのわずか数日後から再開されました。もちろん劇団員が不足している状態でしたが、いる人だけでやるという方針で再開可能な劇場から開演されました。

マンハッタン島への出入りは指定車両以外禁じられているため、島の中の人々しか公演を観ることはできません。公演前には黙祷、アメリカ国家、God Bless America(神よアメリカを救いたまえ)の斉唱がおこなわれました。

楽しんでいるように見えるかもしれませんが、とても辛かったです。思い出すのも辛いくらいです。当時はなんとか気が張っていたのだと思います。劇団員もプロ意識だけで演じていたと感じました。マンハッタン島に封じ込められた出張者や旅行者、そして居住者のためへの演技は言葉にできないほどの安らぎの時間を与えてくれました。間違いなく「エンターテイメントは生きて」いました。

辛かったけど、テロシーンをテレビで見続けて精神的にまいってしまうしかなかったところを、ミュージカルを観続けることができてとても救われる思いでした。「エンターテイメント」の力をひしひしと感じました。

また、まちのイメージ作りもとても重要だと感じました。もともとニューヨークは「怖い街」という印象が強いのでホテルに閉じ込められ、テレビでより恐怖心が煽られると外出許可が出ても「怖い街」には出ていけず、精神的ダメージを受ける仲間もいました。そんな時「安全・安心の国、日本」のイメージの素晴らしさを実感しました。

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長男撮影

これは現在の「グラウンド・ゼロ」の写真です。ワールドトレードセンターの跡地で、日本語訳では「爆心地」を意味します。

20年も経っているのだからもうニューヨークに行っても大丈夫なのではないかと思うかもしれません。あの時とは違ってメディアも増えて情報のやり取りも問題ないし、同じような状態になることはほとんどないと思います。

それでも僕がニューヨークに行くことができない原因は、現在のメディアが伝えられないものにあります。それは、あの時マンハッタン島で感じた「臭い」です。

亡き骸が見つからなかった方も多かったと言われている同時多発テロ事件。それはジェット機の燃料が約1000℃で燃えることにあります。この温度は火葬に匹敵するもので、そのまま二昼夜三昼夜と燃やされ続ければ何かが残る方が難しいと言えます。それでも残るのは臭いです。

毎日のように風に流されてくる焦げくさい臭いを感じていて本当につらかったです。しかし、このような状況をメディアは口や文章で伝えることしかできず、実際の臭いはその場にいた人にしかわかりません。

「あらゆるメディアが伝えられないもの、それは臭い」

2001年に感じたことは21年経った今日も改善されてないし、ITソリューションでも解決できない課題でしょう。いい匂いも嫌な匂いも同等です。
ただ、匂いは伝えられない方がいいのかもしれないとも思います。

以上が同時多発テロから学んだメディア論です。もっともっと伝えたい事はありますが、今でも生き証人としてあの時の話を少しでも伝えることができてよかったと感じています。

改めて同時多発テロで貴重な命を失った方々に心からのご冥福をお祈りするとともに、この失われた命を無駄にしないためにも、テロの無い世界のありがたさを伝達する責任感を持って生活してゆこうと思っています。

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