多趣味は中途半端か唯一無二か
とあるツイートを目にした。
「1つのことを極めている人に憧れるが、自分は多趣味で何もかもが中途半端。自分を変えて一つに絞るのは難しい。モヤモヤするけどゆっくり頑張っていこう。」
という内容の物語がコマ割りで綴られていた。
このツイートには3万以上のリツイート、12万以上のいいねが送られていて多くの方がこの作者に共感するコメントを送っていた。
僕自身、知人から「多趣味な人」という評価を受けることが多い。
けれども、僕はこの作者とは対照的に多趣味ということを積極的に捉えている。
むしろ、多趣味に憧れ、意図的に多趣味な人間を目指している。
一つのことに熱中し、極めようとする営みは確かに魅力的に見えるし、実際楽しいと思う。
しかし、よくも悪くも一つを突き詰め、生きがいとすることは自らのアイデンティティを単純化し、明確化する。
自分が何のために生きているのか、それを言葉で簡潔に言いあらわせることはその人にとってこの上ない幸せに感じられるかもしれない。
しかしながら、そうしたアイデンティティは同時に脆くもある。
何か一つのことに熱中すれば、「それ」はその人自身にとってのなくてはならないものとなる。
つまり、「それ」が失われればその人自身、何のために生きているのか、その指針を失うことになる。
そしてその喪失というのは別に特別なことではない。
金銭的な事情や健康状態などがきっかけで継続が困難になることはもちろん、自分にとっての「それ」が他者と比べた時に劣っていると感じた時にも人はこの喪失感というのに苛まれる。
インターネットが普及した現代では、簡単に全世界の人と繋がれる。
そして世界は広い。
自分のとっての「それ」が世界の中で特論大したものでないと思い知らされる。
何か一つに熱中する、その一つを自分のアイデンティティにしてしまうことが少し怖いと僕は思った。
いろんなことに挑戦し、その経験を自分の地肉にしていく。
それが多趣味ってことなのではないか、様々な経験の組み合わせは他の誰にも真似できない自分だけのものになる。
唯一の自分を作っていく作業、それが人生なんじゃないかなって僕は思います。
だから、これかも僕は多趣味な人間であり続けたい。
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