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「おとうさん、おうちに帰りたい?」   妻の問いかけにゆっくりではあるが、夫は躊躇わずに頷いた。

執筆:東 秀律先生

患者は75歳男性、Cさんとする。
過去のカルテを開くと、背景に慢性心不全、3年前に発見された膵癌は消化器外科で治療している経緯が記載されていた。手術や化学療法を複数行われたが、術後再発、多臓器転移が半年前に判明し、在宅医療を扱うクリニックに紹介され自宅で過ごしているようだ。
妻と娘家族が同居しており、当日の午後から呼吸苦の症状が強くなってきたという。
午後8時、意識がもうろうとしてきたため往診医に連絡し、救急搬送を依頼することとなった。救急隊のバイタルサインでは JCS 100、血圧は低く90/50mmHg、SpO2 85%RAであったため、三次救急選定となり当院の救命救急センターに搬入されることとなった。

研修医と指導医の会話

患者の来院前、研修医は電子カルテで患者の情報を集めている。
研修医:いわゆる終末期だと思うんですが、往診医はどんな経緯でこちらに搬送するように指示したのでしょうか?
指導医:たしかに、カルテを見る限りは在宅で終末期を過ごすという希望が本人にあったことがうかがい知れるね。
研修医:終末期の癌で緩和ケアを行っているような患者さんに、救急でできることってどんなことがあるのでしょうか。救命救急センターというとドラマで見るような、重大な怪我や病気の患者を救命処置をして助けるというイメージでしたが、先月からの研修ではあまりそういう患者さんは診ていないような気がします。
看護師:先生! そんなこと言ってないで、もう着きましたよ!

搬入時の状況

搬入された時点でも、酸素15Lリザーバーマスク投与下でSpO2 88%まで低下していた。喘鳴が強く、冷汗を大量にかき、表情は苦悶様で声も息継ぎをしながら漸く1~2語ずつといった状態だった。
指導医:先生、診察してみてどうだった? 何が起きていて、何をしてあげられるだろう?
研修医:努力呼吸で両肺とも喘鳴が強いです。心不全か、もしかしたら肺炎も起こしているのかもしれません。レントゲンでは両肺の透過性は低下していますし、CTでも中等量の胸水貯留が左優位に認められます。
指導医:そうだね。癌性胸水なんだろうけれど、採血結果や背景からは肺炎と心不全も両方合併している可能性もありそうだね。
研修医:では、血液培養、喀痰培養採取した上で抗菌薬投与をします。気管挿管はおそらく適応はないと思うのですが。主科の消化器外科に連絡して入院を相談しますね。
指導医:ちょっと待ってみよう、先生。患者さんとご家族に詳しい話は聞きましたか?
研修医:簡単な病歴は聞きましたが。
指導医:検査して各科にそのまま渡すだけではなくて、こういう状態の患者さんだからこそ、救急搬送に至った経緯であるとか終末期についての本人や家族の想いをしっかり聞いておくのがいいと私は思うな。
研修医:想い、ですか。

家族との対話

妻:先生、主人の状態はどうなんでしょうか?
指導医:奥さん、残念ながら病状はさらに進行しています。全身状態は少しずつ悪くなってきていたようですが、一気に呼吸症状が強くなってしまい危ない状態です。
研修医:ご本人やご家族でこれまで、状態が急変した場合にどうしてほしいというお話はありませんでしたか?
娘:往診の先生からは『まだそういうタイミングではないので、ゆっくり考えていくので良い』というように言われていました。でも本人は最近1~2週間は本当に辛そうで。庭の草花を縁側で眺めるのが好きなんですが、今週はじめからは長時間座って過ごすことも難しくなってきています。
指導医:庭が好きなんですね。患者さんのスマホを先ほどちらっと見たのですが、犬の写真が待ち受けになっていました。飼ってらっしゃるんですか?
妻:もう15年にもなる老犬なんですけど、近くの河川敷で捨てられているのを拾ってきて飼い始めたんです。あの人が毎朝散歩に連れて行ってました。
指導医:――状態はかなり悪いですが、ご本人がもし自宅で最期を過ごしたいと強く思っておられるのであれば、我々にできることは最大限させていただきます。具体的には、両肺の胸水を針で刺して少しでも減らした上で、在宅酸素を導入できるか往診医と相談させてください。点滴での治療は難しいですが、内服の抗生剤と鎮痛薬で症状を少しは緩和できると思います。ただ・・・
妻:ただ?
指導医:入院で治療を行うよりも死期は早まるかもしれません。慣れない病室で家族やペットと離れたまま亡くなるのと、自宅で皆さんに囲まれて最期を過ごすのと、ご本人はどちらを選ぶと思われますか?
娘:分かりました。一度本人と面会させてもらうことはできませんか?

家族との対面

胸水を左肺から800mL、右肺から200mLの排液を行った。処置と高用量の酸素投与が奏功しているのか、搬入直後よりはいくぶん呼吸は楽そうになっている。家族がベッドサイドに入るが、本人は目を閉じて気付いていない。
指導医:Cさん、分かりますか? ご家族の方が来てくれていますよ。
聞こえたのかうっすらと開眼し、妻と娘を見ると少し顔がほころんだ。
家族に立ち会ってもらった上で、現在の病状を改めて患者本人に伝える。
その上で家族から本人に意向を確認してもらう。
妻:おとうさん、おうちに帰りたい?
娘が犬の写真を見せると、ゆっくりと、しかし躊躇わずに患者は頷いた。

Cさんの状況

往診医は夜間21時を回っていたが、緊急の往診で酸素を手配すると約束してくれた。呼吸状態は徐々に悪化していたことは認識していたが、具体的な話をするタイミングを逃してしまっていたと電話口で謝っていた。週に何度も見ているからこそ、判断が難しかったのだろうと推測する。酸素投与が可能な介護タクシーを手配し、道中の急変に備え研修医が同乗することとなる。搬送中は状態は変わらず、無事自宅に戻ることができた。

その3日後、自宅で亡くなられたとご家族が救急外来に報告に来てくれた。静かな最期だったらしい。縁側で老犬を抱きかかえ、庭を向いて穏やかに眠るCさんの写真を娘さんが見せてくれた。救急外来で見せることのなかった表情に、研修医も指導医も思わず顔がほころぶ。住み慣れた場所で愛する人たちに囲まれたとき、人間はこんなにも優しい顔になるのだ。

研修医と指導医の会話

研修医:先生、すみません。僕、患者さんのことを終末期の症例としか見ていなかったかもしれません。終末期の症例なのになぜ救命救急センターに搬送されるのだろう、と、最初はちょっとよくない感情で対応してしまっていました。
指導医:ぼくらの働く場所は、命を救うことをもちろん一番に考えておかなければならない。ただ、人は誰でも必ずいつかは亡くなる。救えない命に対して何ができるかということにも向き合っていかないといけないね。
研修医:病院での顔しか普段見ていないのでピンと来ませんでしたが、僕らが関わるのは患者さんの人生の本当にごく一部分だけなんですね。写真を見てそんな当たり前のことに気付かされました。

救急医療で求められていることとは

我が国は現在、高齢社会、多死社会を迎えている。施設や自宅で死を迎えるケースがますます増えてくるだろう。しかし、終末期といえども可逆的(治療可能)な病態かそうでないかの判断は容易ではなく、今回のように急性期の救急医療に求められる役割は依然として少なくない。かかりつけ医、在宅医療と連携し、個人の死生観を尊重した医療が行えるような社会になるためには、地域における救急医療の役割も少しずつ変化していかねばならないのかもしれない。

*高齢多死社会

本邦における年間死亡数は、2000年は96万人、2017年は134万人と報告されている。COVID-19の影響もあり2022年は158万人を超えたが、団塊の世代の高齢化に伴い今後も当面は増加していくことが予想されている。また戦後(1945年)から2000年頃にかけて自宅などにおける死亡が減少し、医療機関における死亡が増加する傾向であったが、近年では医療機関以外の場所(自宅、老人ホーム、介護老人保健施設)における死亡が増加している。

厚生労働省。人口動態統計速報(令和4年12月分)https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/s2022/12.html

厚生労働省。我が国の医療の現状
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000138746.pdf

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※このエピソードは実話ではなく、これまで経験した例をもとにしたフィクションです。

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