読書感想 わかるを使い分ける
今日で平日休み3日目。いよいよ暇すぎで死にそうになってきた。
今職場で働いている人が聞いたら激怒するんだろうか。
(大人で激怒する人はなかなかいない)
3日連続でnoteを書いていきたい。
出来るようになりたいという欲求を満たすためにnoteを続けている。
分かりやすく伝わる言語を使えるようになりたい。(相手にとっても、自分にとっても)
さぁ今日も言語化やっていくぞ!
今日の書籍は、「アメリカの大学生が学んでいる本物の教養 斉藤淳著」である。
来ました。私の嫌いな「本物(本当)の〜〜」シリーズ。
「本物(本当)の〜〜」はキャッチーな言葉なので、タイトルによく使われるのを目にする。
会議や雑談のときに「本物(本当)の〜〜」を話をする人は私は嫌いです。
だって、その言葉の裏には、「私が言っている〜〜が正しくて、あなたの言っている〜〜は間違っている」という意図が含まれているから。
なので、「本物の教養」は「今までの教養は間違っていて、私の言っている教養が正しいのだ」と言っているのはちょっとどうなんだい!
「教養は教養である」
まぁ「本物(本当)」シリーズが好きではないことを伝えたく、noteを続けているわけではない。泣
ネガティブキャンペーンはここまでにしよう。斉藤さんが書いた内容から学んだことをまとめる。
教養とは何か。
著者はこう書いている。
要するに、正解を決めつけずに学びつづけることを「教養」と言うんだ、と述べていると解釈する。
では、「わかる」について考えてみる。
よく「わかったふりするな!」と激怒する人がいる。(また激怒する人が出てくる)
これもお門違いだと感じる。
「わかったふり」とわかる度合いを激怒した人が決めつけているわけだ。
じゃあどうすれば良いのか。
「わかる」の到達点を双方で確認することだ。
この作業をすっ飛ばしてしまうのは、言われた方も困る。
激怒している人だけが悪いわけではない。言われた方も、
「どこまでわかることを目指すべきですか?」
と擦り合わせる必要がある。
だからコミュニケーションが必要なのだ。
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