[小説]ある統合失調者の記憶 3話 屋内駐輪場
第三話は、4200字程度です。前回は、ベランダから息子が見た不思議な出来事をお書きしました。そして、屋内駐輪場での出来事から、わたしの心の中にイメージされた映像が、少しづつ広がりを見せて徐々にわたし自身を蝕んでいきます。
2021年の年度初めは、順風満帆からはほど遠いものでした。
わたしは、ある出来事から自己保身しか考えない上司と硬直しきった会社に見切りをつけ、転職を考えるようになっていました。誰それが昇進するためにこの役職についてとか、あの人はプロジェクトに失敗したからポスト落ちだとか、どこの会社でもありそうなくだらない社内政治の話にうんざりしていました。会社の愚痴というものは、どこの世界でも面白みのないものです。それが、わたしの周りで起き始めると尚更でした。わたしのそんな個人的理由は置いておくとして、2021年4月はともかく最低なスタートを切ることになりました。
そんな、心に不満を抱えていたわたしは、新たな就職先を探しつつ転職した場合に年収がどうなるかを日々考えていました。転職後の数年間は確実に年収が減ってしまうと予測できました。現実はライトノベルのような甘い展開は到底望めず、厳しく世知辛いもの。減った年収をどうカバーすればよいかということで日々悩み続け、目を閉じても電卓の数字が浮かぶほどにお金のことで頭がいっぱいになり、脳内の損益計算書は目まぐるしく残酷なシュミレーションを続けていました。今思い返してみると、この時、わたしの心の中は、エスプレッソにスチームミルクをゆっくりと垂らしていきラテアートを作るように、現実には起こり得ない奇妙な絵を描いていたのかもしれません。
わたしの息子は、こども園に通っています。当時のわたしの悩みを写すように、年中になったばかりの息子もこども園でうまくいっていないようでした。わたしの息子は、園庭で遊ぶよりもお絵かきをする方が好きなタイプの子どもで、仲の良いお友達も似たようなタイプの子どもたちが集まって遊んでいました。
そんな、農耕社会のお手本のような穏やかな集落の我が息子の集まりに、暴れん坊の異端児がちょっかいをかけると言うことは往々にしてよくあることのようです。レン君という子どもが同じこども園にいました。この子は、よく女の子の髪を引っ張ったり、人を脅かして追いかけたりする子どもでした。おとなしい息子にもちょっかいをかけてきたようで、園庭で脅かしてきたり、追いかけてきたそうです。最初のうちは、その程度ならこども園の先生方におまかせして様子を見ようと思っていました。しかし、レン君が年中の部屋を抜け出して勝手に園庭に立ち入ったり、他の子どもたちを叩くようになってきて、こども園の先生が手を焼くようになったと聞いたので、農耕社会の息子に武器を与えることにしました。自衛の方法を教えたんです。
レン君が叩いてきたり、押してきたりした時は、まず大きな声を出して「やめて!」ということ。そして、パーにした両手でお腹をゆっくり押しなさいと教えたんです。息子の声は誰に似たのか、ものすごく大きいので、一発で先生の耳に伝わります。
レン君のような暴力的な子は、相手が怯えるから面白がって悪さをするものです。拳の作り方を教えて、喧嘩する方法を教えるのは簡単ですが、のんびり屋ですが体格の大きな息子が喧嘩を覚えるとレン君に怪我をさせてしまうと思ったので、幼いうちはこれくらいでいいかなと思ったわけです。自衛の方法を教えたからかわかりませんが、最初の時ほどレン君を怖がらなくなりました。これで息子の問題も解決したかと思ったのですが、話はそこで終わりになりませんでした。
わたし達の住むマンションには、共同の屋内駐輪場があります。駐輪場には自転車を止めるための高いものと低いものが交互に並んでいるものをよく見ますが、わたし達が使う屋内駐輪場もそのようなタイプのものでした。ちょうど、マンションに植えられている真榊が青々とし始めて、気持ちの良い暖かくさになりはじめた4月の中頃の午後3時頃だったと思います。幼いお子さんをお持ちの家庭であれば、多くの人が使っていると思いますが、チャイルドシートがついた電動付き自転車の後ろに息子を乗せて、屋内駐輪場に帰ってきた時のことです。息子は、自転車を降りるなり、わたしにこう言ったのです。
「お化けがたくさんいる、こわいよ」
屋内駐輪場にはわたしと息子以外、誰一人いませんでした。聞こえてくるのは、国道を走る車のタイヤが鳴らす音だけです。屋外駐輪場とマンションのわたし達の部屋に向かう階段の間には、真榊が植えられてる小さな庭があるのですが、そこまで逃げてきた息子は真剣な顔で続けて言いました。
「燃えたお化けがいっぱいいる!」
そのとき、わたしの目には、本当は薄暗いはずの駐輪場のはずが、燃え盛る激しい炎で昏いオレンジ色に照らされた屋内が見えました。そして、真っ白いはずのコンクリートの壁には黒く焼け爛れた無数の人たちの影が浮かび上がりました。一人は黒く焼け爛れた顔の力無く空いた口から舌がだらりと伸びていました。一人は飛び出すかと思うほど見開いた目から、口から、いや身体中から白い煙が上がり、生きながらに焼かれていました。一人は鶏皮が焼いて剥がれたように剥き出しとなった筋肉を晒していました。人々の姿は、広島に投下された原子爆弾で生きながらに焼かれたような無惨な姿でした。そして、駐輪場の壁は地震が起きたかのように、無数のひび割れが現れ、崩れ始めたコンクリートの壁から現れた砂塵が駐輪場を覆い隠しました。「ねぇ、あのお化けをやっつけてよ」
息子の声は、わたしを現実に引き戻しました。薄暗い駐輪場には、火事もなくコンクリートの壁もひび割れていません。わたしは、安堵して、息子に聞いてみました。どんなお化けだったのと。
「お化けの中にレンがいた。そして、知らない人たちもいっぱいいた」
その一言に背筋が冷えました。だけど、当たり前ですがレン君は死んではいませんし、火傷もしていません。きっと、子どもにありがちな空想だろうと思い、まだお化け入るのと聞き直しました。
「いっぱいいる。ねぇ、やっつけてよ」
息子は、以前、わたしが九字護身法を使ったことを覚えているのでしょう。わたしは、息子にこう言いました。お化けも元々は好きでなったわけじゃないんだから、むやみに危害を加えてはいけない。もし、悪さをしないのなら放っておきなさい。もし、お化けが悪いことをするようなら、必ず守ってあげる。そういうと息子は渋々ながら納得をしました。本当はわたしは、怖かったのです。九字護法印を使うことで得体の知れない黒い何かに息子の存在を知られるんじゃないかと。そして、こちらが攻撃することで反撃してくるかもしれない可能性を。
わたしは、息子にそう答えながら、意識は別のものを見ていました。
わたしの意識は、マンションの隣の南北に伸びている国道に向かっていました。意識は、地図アプリで空から眺めて上から俯瞰するように、国道の真ん中を立ってまっすぐに伸びる道路を眺めるように、ビルの屋上にのぼって遠くの花火を眺めるように、さまざまな方向に根を伸ばしました。道路が一瞬沈み、国道に亀裂が南北へと広がり始めました。道路は竹を割るようにささくれ始めました。道路に生まれたコンクリートのささくれは、アスファルトを押し退けて生えてくる雑草のように隆起しました。隆起した国道に呼応するかのように、周りの建物が歪み始めました。まず、電線が震え始めました。そして、火花を散らした電線は、漁師が網を引くように電柱ごと引き倒されました。あの時差式信号機は、まるで今起きたことが信じられないと言った風に首を傾げていました。建物という建物のガラスが割れ、ゆっくりと地面に向かって落ちてゆき、ナイフで刺すように地面に突き刺さりました。音はありませんでした。建物はゆっくりと傾き、絶妙なバランスのバレリーナのつま先のように立ち、小刻みに震えていました。わたしの前に見えた光景は、ささくれだった木材のように隆起した国道、倒れかかった時差式信号機、ガラスが全て割れて横に傾き始めた葬祭場でした。外を歩いている人は誰もいません。マンションから国道に向かって見える景色は、どれも薄い灰色に染まったようで、そして、とても静かでした。何か遠くから音が聞こえます。最初は、小石を道路にばら撒くようなパラパラとした音でした。それから、音は荒馬のように跳ね上がり、凄まじい轟音と突風が巻き起こりました。遠くから、オレンジ色が見えます。突風の奥には炎の嵐が見えました。炎の嵐は、11階建の雑居ビルの高さを超え、渦を巻いていました。ぼんやりと、関東大震災で起きたという火災旋風というのは、あんな炎の渦を巻いた嵐のようなものだったのかもしれないと考えました。それから、甲高い音がしました。誰かが笛を鳴らしているのかと思いました。でも耳を澄ませると違いました。それは、炎の渦に巻き込まれて生きながら焼かれていく人たちの叫びでした。
気がつくと、息子は心配そうにわたしを見つめていました。
周りを見ると、薄暗い駐輪場の前にわたしは立っていました。それから、息子になんでもないよと話しかけて、息子の頭に乗せているヘルメットを外しました。自転車に積んでいた、こども園から持って帰ってきたリュックサックを背負い、家へと向かう階段を動揺を鎮めるように一歩一歩登りました。息を一息入れて、鍵穴に鍵を差し込んでぐるりと回し、ピピっという音を聞いてからドアを開けて家に入りました。家の中を見渡して、胸を撫で下ろします。いつもと変わらない日常だ。そして、ベランダから国道を見渡しました。国道の奥には葬祭場が見えます。道路も、電線も、建物も、何も壊れていません。空には雲が白く薄く伸びていました。いつもと変わらず国道からは自動車が走る音が聞こえました。
わたしは、ベランダの外のいつもの景色を見ながら考えていました。なぜ、レン君の幻を息子は見たんだろう。レン君は死んだりしていないし、火傷すら負っていない。この言葉の意味はなんだろう。そして、わたしが意識の中に現れた不可解なイメージ。わたしは、結び付けてはいけない二つを愚かにも結び付けてしまいました。
(つづく)
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