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[小説]ある統合失調者の記憶 1話 時差式信号機

第一話は4200字です。第一話は、統合失調症を患うきっかけとなった事件を書いていきます。統合失調者がどのような道筋で妄想に染まっていくのかご覧ください。


 あなたは幻覚というものを感じたことはありますか。自分が幻覚を見るようになった時、インターネットで調べたのですが、幻覚は現実ではないものを見る幻視と、現実にはないものを聞く幻聴などがあって、現実には存在しないことを感覚してしまうことだそうです。
わたしは、幻覚を幻を見ることだと思っていました。
 わたしが幻覚を体験したというのはおかしな表現ですが、まさにあるはずのないことをこの体で感じました。わたしの脳内で起きた感覚は、わたしの脳にあるシナプスの経路は、目に写るように、耳で聞こえるように、肌で伝わるように、まるで存在するかのように、わたしの心を現実と切り離された世界へと連れて行きました。
 兆候はあったのです。
 幻覚を経験した人の一部は、神様にあったという人もいるそうですね。わたしには神様にあったんだという人の気持ちの少しはわかる気がします。子どもの頃から不思議な話が大好きで、多くの本から不思議な体験をした人が書いた本をたくさん読んでいました。その中の一つに、聖書がありました。子どもの頃のわたしには聖書の物語が自然と現実に起きたことだと思っていたからです。ノアが箱舟を作り海を渡っていたときに鳩がオリーブを加えて飛んできた姿、モーセがエジプトで迫害されて時もユダヤの人たちを連れて海を割る光景、イエス・キリストがたくさんの人たちの前で水面を道のように歩く姿といったいった映像が、子どもの頃のわたしの心の中には、現実では決して起こらないことでも、身近な友達のような当たり前の存在としてわたしの頭の中にいたからです。そんな子ども時代を過ごしたわたしは、密教やオカルトといった目では捉えられない不思議な世界に強い興味を持ちました。もしかしたら、わたしのような子ども時代を過ごした方もいるかもしれませんが、悪霊退散のために忍者が印を切る真似をしたり、架空の世界の物語を作って漫画を描いてみたりしながら過ごしていました。もっとも、大人になる頃には育児と仕事に追われる毎日の中で不思議な世界への興味も薄れてしまいました。
 兆候は些細なことから始まりました。
 3年前の当時3歳の息子が家の前に真っ黒い神様がいると言ったのです。当時の息子は、なぜかわかりませんが頭頂骨、いわゆるドクロのことを神様と呼んでいました。
 わたしは、国道に接したマンションの一室に住んでいました。入り口には二つのオートロック式の自動ドアがあって、大きな国道がマンションに沿って南北に走っています。マンションから見て国道を挟んだ反対側には葬祭場がありました。国道はかなり大きく、葬祭場が向かいにあるといっても特に霊柩車が頻繁に走るわけでもなく、近隣でも幽霊が出るという噂は一度も聞いたことがありませんでした。人通りもそこそこありましたが、真っ黒い何かというようなものはわたしには全く見えませんでした。でも、息子は真っ黒い何かを怖がり、外に出るのを嫌がっているようにみえました。そんなことを聞くのが初めてだったわたしは、内心気持ち悪さを感じながらも、息子にそうなんだと適当に相槌を打ち、その場での話を終わらせました。
 わたしたちが住んでいるマンションの前にある国道は、当たり前のように日ごろから沢山の車が走っています。交通量が多いからかもしれませんが、3年ほど前にマンションと葬祭場に一番近い信号機が時差式信号機に変わりました。普通の信号機と違って、時差式信号機って車が走るときと歩行者が歩くときの他に左右に曲がる車のための時間がありますよね。大した時間ではありませんが、車や歩行者の渡る間にほんのちょっぴり違った時間が流れるというか、かすかな時間に隙間があるような気がします。もしかしたら、そのわずかな隙間に何かよからぬものが入り込むようなちょっぴり嫌な感じ、それが時差式信号機に変わったために生まれた気がします。そんなときに、息子から真っ黒い何かの話を聞いたからなおさらそんな気がしたのかもしれません。
 その時差式信号機がある通りは丁字路になっていて、丁の一番頭の部分にわたしたちが住むマンションがあります。時差式信号機に変わった何日かあとに、丁字路で死亡事故がありました。原因は、軽トラックが歩道に乗り上げ、通行人を轢いてしまったからだそうです。そして、亡くなったのは通行人ではなく、運転していたドライバーの方だそうで、脳溢血だったそうです。その事故を始まりとして、丁字路では事件や事故が立て続けに起きるようになったと思います。

 わたしの住んでいるマンションの隣、時差式信号機の前には雑居ビルがあります。都内では珍しくなりつつある、オートロック式自動ドアのないビルで、入ろうと思えば誰でも簡単に入ることができるビルです。軽トラックが歩道に乗り上げた死亡事故があってひと月くらい後のことでしょうか?雑居ビルの前に警察車両が何台も停まっていました。なんだろうとマンションの自宅のベランダから覗いてみると、雑居ビルの前に黄色いテープが引かれていました。テレビドラマで殺人事件が起きたときに、警察が貼るキープアウトのテープです。その時は、何が起きたかわかりませんでしたが、後からマンションの管理人さんに聞いたところ、自殺希望の人が雑居ビルに無断で入っていって屋上から飛び降りたそうです。管理人さんが警察の人から聞いたという話では、どうやら自殺を試みた人は一命を取り留めたそうです。その雑居ビルは11階建というなかなか背の高い建物でしたから、そのような高さから飛び降りて一命を取り留めたと聞いて、見ず知らずの人でしたが亡くならなくてよかったと安堵しつつ、幸運な人だなぁと余計に感心してしまったのを覚えています。
 時差式信号機のある国道は、深夜も大型トラックやトレイラーが頻繁に走る大動脈です。だけど、今のマンションの防音はすごいですね。どんなに大音響で走っていても、外からの音はそう簡単には聞こえません。そう、人が亡くなるような大事故でもなければ。
息子を幼稚園から連れ帰って、二人で三時のおやつを食べながら家の中で他愛ない話をしていた時です。ものすごい金属音がしました。身の危険を感じると時間はゆっくり流れるとよく言われますが、男の人が痛みで甲高く絶叫しているような重苦しい金属音がしました。先ほど申し上げた通り、マンションから外の音は聞こえないはずなのにはっきりと聞こえました。その音は、電車が駅のホームに入る直前に人を轢いてしまうのを防ぐためブレーキをかけたときに聞こえた音にそっくりでした。慌てて窓を開けましたが、なんとも言えない匂いがしました。10年ほどにわたしが乗った電車が人を轢いてしまったことがありまして、あの時は急ブレーキをかけた時にレールと一緒に一つの命が削れたしまったような金属と血が混じったなんとも言えない匂いでした。その時の匂いにそっくりな匂いだったんです。わたしは、思わず窓とカーテンを閉めてしまいました。息子は、外の異変には全く興味を示さずにおやつをまた食べ始めました。わたしは、外に出るのが怖くなったので、スマートホンを取り出して自分が住んでいる地域の名前と事故という単語をツィッターで検索しました。赤信号で時差式信号機を通り抜けようとしたトラックが、急ブレーキを踏んで横転し、わたしたちのマンションの前の国道で止まったらしいと書き込みがありました。それから、沢山のサイレンの音がかすかに聞こえてきて、トラックがマンションにぶつからなかった安堵と、ぶつかったかもしれないという可能性への恐怖の二つの感情がぶつかり合い、息子の体をぎゅうと抱きしめました。事故から1時間もしないうちに、某テレビ局のスタッフを名乗る女の人から1階に降りてきてくれとインターホン越しに呼び出しがありましたが、息子がいるのでとお断りしました。トラックの横転という大事故なのに運転手は亡くならずに済んだと聞き、大事にならなくてよかったと思いました。
 トラックの事故があったせいか、マンションの防音がしっかりしているはずなのに深夜に走る車のブレーキ音が気になるようになりました。時差式信号機がある国道をとおる車の中には、一日一回は金切り声を上げる女性の音のような、金属が削れる悲鳴のような音が聞こえてきます。それは今でも変わりません。
 事故ですか?事故は今でも起きていますよ。この前も死亡事故がありました。死亡事故があった時に置かれる木でできた死亡事故という文字が大きく書かれた看板、あれは見ていて悲しいですね。そしてその下に置いてある花束が徐々に萎れていって、最後には看板だけが置いてある、亡くなった人が事故の記憶と共にゆっくりと消えていってしまうような寂しさが今でも好きではありません。
 2年ほど前の話です。わたしが四時頃にうとうとしていた時、あの大型トラックが横転したような甲高くも物々しい音が聞こえました。あ、また事故が起きたなと思い、窓を開けてベランダから様子を見てみました。窓を開けると以前嗅いだ匂いがそこにありました。外はまだ暗くて、何が起きたかは全然見えませんでしたが、わたしは同じような事故があったと思いました。しかも、なぜだかわかりませんが今度は誰かの命が削られてしまったと確信しました。
 事故は前回のトラック事故よりも大きいものでした。時差式信号機がある丁字路を国道に向けて右折しようとしたオートバイに、国道を直進した大型トラックが衝突したとニュースの記事にありました。ニュースでは衝突と簡単に書かれてしまいますが、現場は凄惨だったそうです。オートバイに追突した大型トラックは、オートバイのドライバーを車体の端に引っ掛け、10メートル以上の距離を引き摺ったそうです。道路にものすごいスピードで引きずられた人間は、大根おろしを全身にされたように体が少しづつ削られてしまいます。道路には細かく刻まれタンパク質の塊になってしまったものが今でも広がっているんです。とても恐ろしいことです。その時、時差式信号機がある交差点には、赤黒いシミがペンキで引き伸ばしたようにわたしのマンションまで伸びていました。だけど不思議なんです。時差式信号機は、国道を直進する車、曲がる車、歩行者の順で信号が切り替わります。大型トラックは、車が市道から国道に入るわずかな時間の時に猛スピードで直進しました。時差式信号機は、なんの変哲もない丁字路に置かれています。大型トラックは、居眠りでもしたのでしょうか?それ以外にこの丁字路に直進して事故を起こす理由はないように思えます。
 それとも、時差式信号機に変えたことで生まれた、小さな時間の隙間には、息子に見えたという何か黒いものでもいるのでしょうか。今でも、深夜に時差式信号機がある交差点では甲高い金属音が生き物の悲鳴のように聞こえてきます。
(つづく)

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