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日本語ラップにおけるリアルをリリックから考える。part2

どうもおばんでやんす。

拙者は武太でござる。

今月くらいからnoteを始めてはや三週間近く経とうとしている訳ですが、ホントに毎週書くのはしんどいよね。だからいつも漫画とかの休載をブチ切れていた拙者ですが、そりゃそうだよなと思いました。

その前に。。。

前回もリアルをテーマに書きましたが、それについては正直前回の記事をみて欲しい。今回はその続きです。リンク貼りましたのでそちら見てからこちらを見ていただくと幸いですし、わかりやすくなると思います。

HIPHOPにおけるリスナーとリアルの多面性

HIPHOPの文化はリアルという言葉が重要視されている。そしてリアルという言葉の曖昧さはそれぞれのラッパーに様々な解釈をもたらし、文化の発展の大きな一助となった。しかしその解釈の曖昧さによってリアルという言葉をしっかり説明できる人はいないという現状につながっているという話をした。

しかしそんな現状の中でも、リアルの解釈を最大公約数的に表したバースがあると考えている。それがMACHO氏「Beat&Rhyme」の「リリックの中身は自分の分身 どの口が何言うかが肝心」である。このバースはリアルという言葉をほぼ表していると考えている。しかしこれはラッパーとしてのリアルの解釈は100%かもしれないが、今の日本のHIPHOPの現状で考えると80%くらいだと感じている。その理由はリスナーの存在である。ここまでが前回自分が話した大まかな内容である(少し言葉を足しましたが)。

ではリスナーの存在がなぜリアルという解釈をわからなくするのか、それが今回の話の主題である。そして事前に断っておきたいのはリスナーのせいでリアルがわからなくなっているとかという小学生のようなディスではなく、現象としてこういうこと起こっているよねっていう話なので、そこの所事前にご理解ください。

「どの口が何言うかが肝心」から見るリアルが持っている多面性

先ほども言ったが、ラッパーとして言うならこのバースはリアルを語るうえで欠かせない言葉であるだろう。ではなぜ80%くらいなのだろうか。それはこのバースがあまりにも影響を与えてしまったことにある。このBeats&RhymeでMACHO氏は日本のhiphopの歴史からラッパーとしてのスタイルの多様性、そして最後にMACHO氏自身の045スタイルの矜恃という、RHYMESTERの「b-boyイズム」にも負けず劣らずのパンチライン放った。この時点でつまりMACHO氏がこの曲を出す前はリアルについて100%伝えているだろう。

だがこのえげつないバースをワンバース目に持っていきながら、DABO氏、般若氏、NORIKIYO氏を客演に呼ぶという、さながら2010年代の「証言」のような曲として世に出てしまった(ファン心理からしたら嬉しさしかない)。つまりこの完成度から影響力が大きすぎて1つの曲という枠を飛び越えてリスナーの評価軸へと派生したのである。。それを示すようにNORIKIYO氏のインタビューやSIMONJAP氏のTwitterでhiphopを語るときにこの言葉が用いられている。

MACCHOくん(OZROSAURUS)のリリックじゃないけど、「どの口が何を言うかが肝心」。やっぱほかの人が言えないことをいかにおもしろく言うとか、ありきたりの言葉だけどそれを自分のセンスで組み合わせたら響き方が違ってケミストするってことだと思うから、ラップの上手さってそういうことだと思うんすよね。

と述べていたり。
2021年1月16日のSIMON JAPのTwitterにおいて

2021年1月16日のTwitterより

この他にもファンやhiphopヘッズも含めれば多くのアカウントがこの言葉を引用している。ラッパーがサンプリングとしてバースを引っ張ることは日常茶飯事だろうが、会話、つぶやきレベルでも引用されるバースはこれを入れても数える程しかないだろう。このことから、1人のラッパーのバースが最大公約数のリアルの価値観として満遍なくhiphopヘッズに共有されていったことがわかる。ラッパーとしてこれ以上ないことだと思う。また日本語ラップが文学及び音楽史として紹介される際には間違いなく紹介されるバースにもなるだろう。だがこれは、1人の意見が様々な人間を介在したということも意味しているのだ。 

突然だが、皆さんは写本という言葉をご存知だろうか。簡単に言うと、原本を元にして手書きで本を写すことを言う。日本では主に安土桃山時代まで続き、主な本の複製方法として用いられた。写本の説明を読んでいる段階で何となく察しが着くと思うが、写本の問題点は手書きによる複製のため誤字、脱字が多いところである。それだけならまだいいが、この写本は全く違う意味で文を写してしまう場合もあるのだ。

この写本のような誤った状態で伝わってしまうという現象が、さっきの「リリックの中身は自分の分身、どの口が何言うかが肝心」にも言えるのだ。多種多様な「どの口が何言うかが肝心」評価論はリスナーの独自の観点でのリアルを生み出していき、リアルという言葉をより分からなくさせた。つまり、リアルを100%表すはずのバースは皮肉にもそれに影響を受けたリスナーの手によって80%に薄められたのだ。

まとめ

今回は前回のMACHO氏のリアルとその影響、広がりについて淡々と述べてきた。ほんとはこの後にリリックの深掘りをしたいのだがとんでもなく長くなったので次回のpart3に後回ししようと思います。part3ではばらばらになったリアルの解釈によってあまり正確に評価されていないだろうという(もう少し見方を変えるべき)二人のラッパーを見ていく。

そしてDJ松永氏の炎上の件(もう忘れさられたボヤ騒ぎ)についても書こうと思ってます。

では今回はこの辺で

おおきにホーチミン

ご意見、要望、修正案、これは違うだろ!自分はこう思います!などご意見いただければ幸いです。しかし私も人間です。きつく言われすぎると傷付きます。お互いリスペクトをもって話しましょう。








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