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卒論指導について考える 教養と専門性と

3月も下旬となり,今年も4年生が卒業した。

毎年自問自答することだが,自分は4年生に対して約1年間かけて指導してきた結果,何を残せているのか?

卒業生の多くが研究職には就かないという現実の中,専門性の高い研究を通じて,学生に何を教育すれば良いのだろうか?

週末には4月になり,また新たな4年生が卒論生として研究室に配属される。

この変わり目に,卒論指導について改めて考えてみたい。

専門性について

冒頭でも書いたが,卒論では我々教員の専門分野の研究を行う。

大学教員としてはもちろん良い研究成果を出して,論文として世間に公表する義務がある。

しかし社会が成熟し,専門性が高度に細分化された今,研究結果が日常生活で直接的に役立つことを学生が実感できる機会はおそらく極端に少ない。

「方程式なんて生活するのに必要ない」と中学生が言うように,○○の挙動とか,△△の特性がわかったところで,生きていくことに直接関係ないと感じても無理はない。

自分の場合は研究職に就くことを頭の片隅に置きつつ卒論・修論を進めてきたので,「この分析方法は理解しておかなくちゃな」とか「このグラフの作り方もありだな」という研究者側の目線が常にあった。

しかし,大多数の学生には「1年後には関係ないんで,ほどほどでいいっす」という割り切りがあり,これは将来研究職に就く事例が圧倒的に少ない地方大学においてより顕著な傾向だ。

教員側としてもそういう割り切りがどうしても目に付くので,「そう言われればそうだよなぁ」と半分やる気が削がれる感がある。

教養について

それでは,社会人として必要な礼節や教養を中心に教え込めば良いのだろうか。

確かに,挨拶のマナーやメールの出し方にはじまり,ワードやエクセルの使い方を学ぶことは社会人としての日常生活に直結する。

エクセルのショートカットキーの操作なんかを教えると,「これは後々使えそうだ」と学生は喜ぶ。

また,リベラルアーツ的に総合的な知識を幅広く身に付けることは,結果として社会人の幅に繋がる気もする。

しかし,工学系の地方大学としては,ある程度の専門性をもった技術者や公務員を育成して社会に送り出すことが一つの使命であって,存在意義である。

専門過ぎず,かと言って一般教養でもない,そのちょうど良い間が落とし所なのだろうか。

論理的思考力を養う

ここまで考えてきて,卒論指導の意義は「論理的思考力を養うことである」というのが若手教員としての現時点での結論だ。

ありきたりな話かもしれないが,社会人として新たな課題に直面した時に,専門的な背景を理解した上で,自分の頭で考えて対処できる能力を身に付けることが必要だと思う。

たしかに最近では,値を入力すれば答えが出てくるようなソフトウェアツールが普及してきており,これにはさほど高い専門性は必要ない。

それでも社会が良くなっていくには,日々出てくる「新たな」課題を解決していくことが必要であり,それらはGoogle検索で答えが出ない問題ばかりだ。

「知らない」「わからない」問題に直面にした時に,それを解決するための思考方法を卒論指導を通じて教えたい。

「どうしてそうなったのか?」「他に方法はなかったのか?」「なぜそう考えたのか?」と,ある種学生を追い込みながら,考える能力を身につけてほしいなと思う。

高度な理論を暗記する必要は全くない。

学生には論理的思考力を身に付ける「訓練」として卒論を活用してほしいし,その点は教員としても忘れないようにしたい。


最後は少し抽象的な結論になった感はあるが,良い研究成果を出すにはどうしても教員の熱意と学生の志がセットである必要がある。

「自分はそこそこでいいんで」と考える学生と,研究成果を出したい教員間の認識のギャップをできるだけ小さくするために,学生が主体的に研究に取り組むことができる環境を整備することを来年度は意識したい。


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