不登校だったころのお話

林聖基(はやし・まさき)です。皆さんお久しぶりです。
今日は珍しく、私の不登校だった時の話でもしようかと思います。
今、なんとなくで注目されている不登校問題。南近江市長は不登校は親の責任だの不登校の子供はわがままだの自由に言っているみたいですが、皆さんどう思いました?私も不登校を実は経験しています。その視点から察するに・・・南近江市長に言いたいのは不登校といえども様々な層があり、難病や重い病気・障害・イジメ・ヤングケアラー等々存在する。学校で落ち着いて学びたい人が共通認識として強いのに自分の勉強不足を棚に上げるな恥を知れクソジジイ。と思います。

さて本題ですが、私林聖基は中学校から不登校でした。原因は、端的に言うとイジメや差別です。私は広汎性発達障害という知的障害を患っています。
小学校時代に特別学級にいて5年生の時に普通学級へ復学をしたのですがそのころから「障害者キモイ。」と何度も言われました。中学に上がった時おそらく、ほかの小学校から来た人たちにも私が特別学級にいたことが伝わりさらにイジメや差別はエスカレートしていきました。中学1年の2学期あたりに学校に行ったりいかなかったりを繰り返し、さらに悪いことに数学のノートにバカ・あほ・死ねと書かれ、テレビでドラマで見た謳い文句のようだと軽く思っていましたが内心限界だったようで、不登校になりました。
母は、学校へ行けとしか言わず、頑なに拒むと大体家の外に放り出されていました。当時、私の考えはこうでした。
まともに授業も受けれず、先生までも私のことを馬鹿にしてくる。こんな状況下で学校行ったって私の犠牲が大きすぎる。と思いました。
不登校の私は何をしていたかというとパソコンでユーチューブ見たり、アダルトサイトみたり、パワーポイント作ってみたり、ワード作ってみたり、頭で考えた料理してみたりなどなどしていました。
当時の自分は完全に疲れ切っていました。やることを無くしたかったんだと思います。自分の世界に籠ってました。

不登校は高校になっても続き、進路がなくなり、一年制の林業の専門学校へ行くことになりました。全寮制でヤンキーや暴走族などの更生施設みたいなところだったため私は断固拒否したのですが、親に半ば強制的に入学しました。学校来なければ家まで先生が来るという脅迫の元学校を渋々行くことになり何とか通学し続けれるように(遅刻はよくしましたが・・・)なりました。

不登校は親のせいでもなければ、自分のせいと思い詰める必要もありません。ただ、やってほしいのは自分ができるフィールドを探してほしいのです。自宅でもフリースクールでもどこでも構いません。得意分野を生かせ易いこの時代だからこそ、様々なことにチャレンジし継続できることを見つけていただきたいです。学校だけがすべてではありません。
学校は基本なことを学びますが応用は学べません。社会の応用や暗黙の了解なんて学校では学べないのと一緒です。
基本的な勉強なんてベネッセなり塾なりどこでもできます。正直言うと。
一方で定期的に学校へ行かないといけない理由として社会性という部分があります。今学校で流行っていることや学校でしかわからないこともあったりして色々と情報を見るという上では学校は必要になります。

最後に
私でもそうでしたが学校へ行くことはとってもストレスで勇気もいるしかなりしんどいです。
でも不登校を経験しいいおじさんになった26歳だから言いますが、
完全に学校へ行かないのは将来困ります。
私は中学や高校で社会性の基本を身に着けることができなかったからです。
それはかなり致命的でした。一般雇用でイジメられて差別を受けた際何も行動ができなかったからです。
無理にとは言いません。自殺ぎりぎりのラインにいる人なんてもってのほかです。休んでください。心が安定したときや学校へ行こうかなと思った時で構いません。学校へ行くのをチャレンジしてみてください。

親の皆さんへ
不登校になっているのを心配して気が気でないのはわかります。
お子さんの未来をより良くしたいと言うのも分かります。
ですが、今のお子さんの状況は人間関係や進路などなど抱えている問題が大きく処理できていません。さらにエネルギーもありません。
例えるなら、ガソリンもないのに車を走らせようとしているのと一緒です。
今は待ってあげてください。話を聞いてあげてください。
お子さんの見方はあなたしかいません。
学校の先生なんて赤の他人ですから裏表が必ずあります。
応援してるからねなんて営業スマイルぐらいの薄っぺらいものです。
だから話をよく聞いて今後どうするかを真剣に考えてください。
よく考えず、分析もしなかった、私の親みたいならないでください。