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大角牧師の今日も好"舌"調 第4回「だーいじだぁ。心配すんな」

「『なしてそがんびくびくすっとか。信仰があれば、恐ろしかこつはなかろうが』弟子たちは恐れいっちおたがいにいったと。『こん人はいったい誰じゃろうか。風も海を従えてしまわすとは』」(「奇蹟」風聞・天草四郎:立松和平著より)
 「奇蹟」の著者・立松和平氏は、島原城キリシタン史料館の解説員に天草・島原地方の方言の指導を受けて、天草四郎に関するこの小説を書き上げたそうです。もしイエス・キリストがこんな風にあなたに語られたら、あなたはイエス・キリストをどう思われるでしょうか。
神の御子なのだから、イエスは格調高いおことばで話されていたに違いないと思っておられるならそれは大いなる誤解です。主は決して「汝」とはおっしゃいませんでしたし、日本で言えばなまりのない、きれいな標準語をお使いになってはいませんでした。

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 イエス・キリストは市井の人と同じ物をお食べになり、高貴なことばではなく、平易なことばでお話しされていたのです。片田舎のガリラヤ出身ですから、イエスのことばはガリラヤなまりだったはずです。
 ですから立松氏が故郷宇都宮のことばで小説を書いたら、冒頭のことばは「な~んでそんなにびくびくしてんだぁ。信仰があったら、おっかねえことなかんべぇ」となっていたでしょう。
 イエスがこんなことばを使っていたとしたら、聖書もそんなことば遣いで書かれていたら、途端に有難みが薄れてしまいますか?神々しいイエスが突然俗人に見えてきて、軽蔑の眼を向けたくなりますか?
 イエス・キリストが迫害されたのは、実にそのような理由からでした。イエスは知的で雅なことばではなく、野卑な俗語で会話をしていました。収税人や罪人と食卓をともにしながら、時には盃を酌み交わしていたのです。
イエスがパリサイ人や律法学者のご機嫌をとり、高貴なことばを使って上流階級と付き合っていたら、ユダヤ人の指導者に気に入られていたはずです。そんなイエスが受難の憂き目に遭うことなどなかったと思います。
しかし主は、社会の底辺に住む人々とともに暮らし、彼らと同じことばを使い、同じ食事をしていました。だからこそイエスは、私たちの弱さを知り、これに同情することがおできになるのです。

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 イエスが今、弟子たちのように恐れるあなたのところにやって来られたら、「なんじら何ゆえに恐るるや、なんじらなお信ぜざるや」(文語訳)とおっしゃるでしょうか?
決してそのようにはおっしゃらないはずです。あなたが普段使われていることばで、もっとも聞き慣れたことばで、やさしくあなたに語りかけてくださるに違いありません。
 主イエスは私やあなたに、きっとこんな風に語り掛けてくださる気がするのです。「しゃーねえなぁ。だいじだぁ。心配すんな。俺を信じろ。おっかなかねえぞ」

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