峰町キリスト教会
毎週の礼拝メッセージを短く要約したものです。グループでの分かち合いやディボ-ションにご利用ください。
峰町キリスト教会、礼拝説教のアウトライン、レジュメです。YouTubeにてライブ配信、過去のメッセージを観ることができます。合わせてご利用ください。
毎週の礼拝メッセージを要約したものです。メッセージのふり返りやグループの分かち合い等にご利用ください。
峰町キリスト教会、礼拝説教のアウトライン、レジュメです。
○Ⅰサムエル記30章「ベソル川のほとりの恵」(安食滋良牧師) 子どものころは、自分のものは、自分だけで独占したいという気持ちが強いですが、成長するにつれて、持っているものを誰かと分かち合う、誰かに分け与える喜びというものを、経験していくものです。今日の箇所も、受けた恵みを、周りの人に等しく与えるということを教えている箇所になります。 前回見た25章のナバルとアビガエルの話から、今回の30章まで、どのような出来事があったのかを見ていくと、エンゲディで、ダビデの赦しを通し
2024.11.10 創世記 17章1〜27章 「神の前を歩み、全き者であれ」 今日の箇所には、人生の途中で名前を改名した人々が登場します。一体どんな経緯があったのでしょうか。 ① アブラハム契約の更新 アブラムは、100歳1歩手前の99歳を迎えていました。しかし、妻サライとの間に約束の子が与えられる兆候は一切ありません。アブラムは、サライの妾であるハガルとの間に生まれたイシュマエルを約束の子と思っていました。そんな彼に、神は契約の確認をします。最初の約束か
夜に愛犬の散歩をしています。眠る前の用足しをさせてあげたいからです。散歩の間に必ず人と出会います。そのほとんどが暗闇でスマホの明かりをちらつかせながらの歩きスマホです。闇の中でもその光はまぶしく、遠く離れていても愛犬はその人を認識します。 そもそもスマホや電子機器に対して、好感を持てない私には、夜道を歩きながらもそんなことに手を染める生活習慣が理解できません。もはや中毒症状だと断罪させていただきたいくらいです。忙しい現代人はひと時でも何か有益と思えることのために使いたい
まだ、私が十代の頃、従妹が「第二の性」という本を紹介してくれました。フランスの哲学者・文学者であるボーヴォワールの著書です。当時、この本は著者とサルトルとの共同生活なども煽り風になって一躍全世界で脚光を浴びることになりました。 この本の冒頭に書かれているのは「人は女に生れない。女になるのだ」という驚くべき一文です。私の従妹はこの本にすっかり心酔していて「女らしさなどは作られたものだ」と語りました。ボーヴォワールの主張が、その後の女性解放運動に大きな影響を与えたことは言う
教会には、いろいろな賜物を持った方々が集います。また、いろいろな意見を持った方々がいらっしゃいます。教会は独裁国家ではありませんから、いろいろな特性も、意見も大歓迎です。勿論、それが「弱い人の躓きにならないこと」を心掛ける必要がありますが。 「賛美の会」という婦人会の活動があります。賛美を通してご奉仕をしたいと願う人ならだれでも会員になれます。歌の上手や下手は問いません。但し「主に向かって喜び歌う」という大切なポイントだけは譲れませんが。この会は通称MCC48と言います
二つの道 ○Ⅰサムエル記26:21~25 1.人生は選択の連続 人生は選択の連続で、選択がその後の人生を大きく左右します。 ソロモンの「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(箴言18:21)という言葉の通り、人生は自分の発する言葉で左右されます。ネガティブな言葉を選ぶと苦さを味わい、ポジティブな言葉を選ぶと喜びが得られるのです。人生の選択は他人に強制されることもありますが、心の中で何を選ぶかは自分次第であり、他人に支配されません。 今日の箇
使徒の働きに出てくるアポロという人物は、とても雄弁で説教が上手だったようです。人々は、彼の言葉に引き付けられて熱心に話を聞いていたようです。 しかし、残念なことに彼が得ていた福音は旧約聖書と、ヨハネのバプテスマ、イエスさまについての間接的な情報でしかなかったようです。第一コリントの一章十二節によると「あなた方はめいめいに、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っているということです。」と、当時の教会がそれぞれの説教者の「推し」(?)の
メッセージ要約 2024.10.27「ナバルではなくアビガイルのように」 ○1サムエル25章 朗読1−13節 アメリカのジョン・ブースという舞台俳優が、1865年4月14日、当時の大統領アブラハム・リンカーンを暗殺しました。その数週間後、この犯人の実の兄が、線路に転落したリンカーンの息子を助けたのでした。弟は大統領を暗殺し、兄は大統領の息子を救ったのです。兄弟は同じ環境で育ちながら、対照的な人生を辿ったわけです。 ナバルとアビガイルという夫婦も対照的な人生を送りました。
「ここに飢えた者がいる。魚を与えれば飢えは癒されよう。また、魚の採り方を教えれば、この先飢えずに済むであろう。だが、もし自分で魚の採り方を身に着けられる環境を作ってやれば、この先飢えずに済むばかりか自尊心も持つようになるだろう」こんな文章を目にしました。 私は、いい歳になりました。俗にいう老人というグループに立派に仲間入りしています。本人は時々それを忘れていますが、周囲の必要以上の気配りに「年寄扱いを受けているなあ」とありがたく思う次第です。 教会で五十年近く続けて
○Ⅰサムエル記24章1節~16節「エンゲディでの赦し」(安食滋良牧師) 現代は、怒りをうまくコントロールする「アンガー・マネージメント」というのがよく言われますが、聖書の中に、私たちの怒りに対する1つの解決法が書かれています。それが赦しです。今日はダビデが自分の命を狙うサウルに赦しを差し出す。そのような場面を共に見ていきたいと思います。 今日の箇所の背景ですが、ダビデはサウルの一方的な嫉妬によって命が狙われていました。サウルから逃げる中で、ダビデを助けた祭司アヒメレク、