なんて日だ!

怒涛の三が日が過ぎました。
みなさまいかがお過ごしですか?
どうも。おちびです。

例年であれば、あっという間にお正月が過ぎ去り、とはいえ業界的には閑散期なのでとりあえず山へスノーボードしに行くというのがお約束でした。

が。

石川県をはじめ、私の住む地域も含めて大地震が襲い、落ち着かない2024年の幕開けとなりました。
備忘録として残しておこうと思います。


あ、その前に、全く関係ありませんが
『元日』は1月1日を指し、『元旦』は1月1日の朝を指すそうです。
私の本来の職業は司会業ですので、そういうどうでも良い細かい事ばかり気になってしまいます。


飲食店で『お刺身盛り合わせになります』とか言われようものなら、

………いつお刺身盛り合わせになるのでしょう。
5分後でしょうか。今はまだ、お刺身盛り合わせではないという事でしょうか………

と、しょうもないツッコミが心の中でぐるんぐるんしてしまいます。

『こちら、すき焼きになります』とか言われようものなら、

………うんまぁそうだね。まだ焼かれてないもんね。これから火にかけて、グツグツしたらすき焼きになるもんね。正解です………

とか思う程度には私は捻くれた人間です。
性格悪いですね。うふふ。


話がだいぶ逸れました。
元日のお話です。

午前10時くらいにのそのそベッドから起き上がり、義母にあけおめして朝食を食べた後、昼頃お風呂に入りました。
私も夫も、予定がなければ明るいうちから酒をぶちかます酒クズなので、私は15時半くらいからビールが飲みたくてうずうずしていました。もはやアル中ですね。
でもなんとなく『まだ時じゃねぇ』という野生的な勘が働き、うずうずしたままソシャゲに興じていました。17時になったら飲もうと心に決めながら。
夫はベッドに寝転がり、ぼんやり動画を見ていました。



16時頃。
1回目の地震。
ゆらゆらとした横揺れがきました。
スマホの緊急地震速報は鳴りませんでした。
震度3とか4程度なら、この地域ではザラです。
中越地震、中越沖地震の二度の被災経験がある夫は、ベッドでうっとりしたまま動こうともしませんでした。

『ちょっと大きかったね。テレビ見るか』
『これどっかでめちゃくちゃ揺れてた可能性あるな』

部屋のテレビをつけてNHKにチャンネルを変えました。
ちなみに我が家はNHKにちゃんとお金払ってる民です。

『あー石川か。しょっちゅう揺れんなぁ。正月から大変だ。』

震源が分かったので落ち着こうと座り直すと、お尻の下からドドドドド…というジョジョみたいな効果音と突き上げるような縦揺れが。
余震?でも余震というよりは……。

『あ。今度は縦揺れだ………さっきより大きくなるような…?』

と私が呟くと、遅れてテレビの緊急地震速報が。
続いてスマホの緊急地震速報。

『ぉぉぉ?こっちもでかいのくるの?』

夫婦の寝室は大きく揺れ、家全体がギシギシ鳴って廊下に並んだ機材箱が動きました。

ベッドに寝転がっていた夫も『そろそろ出るか』と起き上がり、部屋を脱出する頃には何かに捕まらずに立つのは難しい状態になっていました。
廊下の土壁がパラパラと崩れました。

玄関まで辿り着くと、義母が玄関の引き戸につかまりながら出口を確保するためになんとか立っていました。
玄関が激しく揺れるたびに出口が菱形に歪みました。

よく、30秒から1分ほどの激しい縦揺れ、などと表現されますが、もっと長いように感じました。


このままでは家がやばそうだ!
ここは二度も被災している!その度に家は綺麗に補修されているものの、これで潰れるかもしれない!!

裸足のまま玄関を飛び出して外を見渡すと、電線や隣家の木が大きくしなり、車が前後に転がりそうに揺れていました。
地鳴りと家々が軋む音を聞きながら、この後起こるであろう事を考えていました。

うわー。絶対石川やばいじゃん。
もしかしてここもやばいじゃん。
あ、そういえば靴履こう。

一旦玄関の中に戻り、靴を取って外で履きました。

夫も一緒に玄関に入り、義兄の名前を呼びました。
義兄はちょうどお風呂に入ろうとしていたところだったようで

『風呂のお湯が溢れてやべぇ』

と、いつも通りの落ち着いた雰囲気でゆっくり現れました。
震災慣れしてんなこの家族。


やがて揺れが小さくなり、一旦家の中へ戻ってテレビに目をやると画面にデカデカと『津波』の文字が表示され、アナウンサーが尋常ならざる叫びで『東日本大震災を思い出してください』『今すぐ逃げてください』と繰り返していました。

我が家は海から遠くはないし、海抜も高くもなく低くもなく、なんだかどうしたら良いのか判断を迷う立地にあり、海と我が家の間には山というか丘というか、ちょっと高くなってる地域があったりなんかもするわけですが、まごまごしていて死んだらシャレになりません。
津波は見えたら終わり。もし自宅の2階に逃げたところで、家ごと流される可能性もあります。冷たい泥水の中で溺れ死んでいくなんて、想像しただけで恐ろしいものです。
夫に『とりあえず一旦出よう』と提案し、上着を羽織り、いつも持ち歩いている小さなguessのバッグとスマホを掴んでHarrierに乗り込みました。

『どこ行く?』
『とりあえず西山のふるさと公苑が近いしわかりやすく高台じゃない?長岡方面に行くには途中の山道が崩れてる可能性あるし』

こんな事は結婚してここに住んでから想像もしていなかったので、避難場所はふるさと公苑くらいしか思いつきませんでした。
変な細い道とか農道とか通って万が一液状化で沈んでたり地割れしてたりで足止めをくらうのも避けたかったし、柏崎に向かっても高台までは遠い気がします。大きな道路を通って確実に行けるであろう場所、しかも高速道路は多分もう使えないであろうと考えると、かの田中角栄氏のお膝元くらいしか知らなかったのです。

国道116号線に出ると、まだ交通量は少なくスムーズに西山町方面まで進んでいけました。
海側の小路から車がどんどんあがってくるのが見えました。

『あれみんな避難するんだ』

たくさんの車が坂道を登っていくのが見えて、みんな同じ事を考えてふるさと公苑に行くのだろうと思いました。
案の定、高台の駐車場はまるでイベント会場かというくらい混み合い、次々車が入ってきました。

避難の途中で、父からと妹からと、それぞれ安否確認の電話がありました。2人はそれぞれ新潟市に住んでいて、後にニュースで実家近くの郵便局の映像を嫌というほど見ることになります。


何時に家を出て、何時に避難を完了したのか、このあたりの時間の記憶はあまりありません。
妹とのLINE通話をした16:45には避難を完了していたので、16:30過ぎにはふるさと公苑にいたのかもしれません。

夫は関係各所からの安否確認電話で忙しそうにしていました。
車の外では柏崎市の広報の無線が響いていましたが、私はあまり聞いていません。
車内のテレビから流れるニュースに釘付けになっていました。
高台の民家からは灯りが漏れ出ていたので、どうやら停電はしていないようでした。

その時私は、大地震が来る前にトイレに行かなかった事を深く後悔していました…。
膀胱が千切れそうでした。

西山町ふるさと公苑は、道の駅です。
トイレは建物の中にありますが、元日は営業しておらず、おそらくトイレには入れなかったと思います。
まじで膀胱が千切れそうでした。

やがて日が暮れて辺りが暗くなり始めると、少しずつ避難していた車は駐車場を出て行きました。
まだ津波警報は解除されていませんでしたが、すでに到達した津波の高さが速報されていました。
家を出る時も、避難してからも、何度も余震で車がゆらゆら揺れていました。
その度に私の膀胱もまるでフェスの最前でモッシュかますお行儀悪いマンのように伸び縮みを繰り返しました。地獄です。



17:30を過ぎると、地震直後はまるでドライブインシアターのようだった駐車場はガラガラになり、私たちも一旦帰宅する事に。
この時も、まだ津波警報は発令されたままでしたが、あまり長居しても新しい情報が出てこないので、とりあえず高台を降りよう、という事で帰る事にしたのです。


その後は、水道が止まったりガスを復旧させたりで少々慌しくしましたが、家はとりあえず形を残しているということで夕食を済ませ、通常通りビールを煽って4:00頃ベッドに入りました。


とりあえず。
風呂のお湯、すぐ捨ててなくてよかったです。
丸1日くらい水道止まったけど、風呂の残り湯でトイレ流せたし、ペットボトルの飲用水もギリギリ買えたしで、なんとか凌ぐことができました。

各所でまだまだ大変なことが続いていますが、私の場合はこんなところです。
今は通常の生活ができています。

駄文にお付き合いありがとうございました。

今年もよろしくお願いいたします

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