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田園都市が非常事態にどう向き合うかを取りあげた佐藤光『よみがえる田園都市国家』(筑摩書房)を批評する。

最近発行された佐藤光氏の『よみがえる田園都市国家』(筑摩書房、2023年3月)では、田園都市(ガーデンシティ)が、安全保障と関わる「非常事態」にどのように向き合うかが取り上げられている。この本について批評をおこなう。

1. 「コロナ、そして死とともにある時代に」

最終章の「コロナ、そして死とともにある時代に」から読んでみた。

特にロシアのウクライナ侵攻に関しては、どのような田園都市も安全保障なしには成り立ち得ないことを思えば、この種の問題を抜きにして議論の万全を期すことはできない。(太字にしたのは引用者。)

225ページ

こういう発想だとテーマがどんどん広がってしまうのではないかという印象を持った。侵略や戦争に備えて日本列島の各都市に長距離ミサイルや戦車を配備しなければならないとかいうことなのだろうかと思った。(そういうことについては、「台湾海峡での軍事的衝突に米国が介入した場合に、それに関与する米軍基地がある日本が中国に攻撃される可能性がある。日本列島は米国本土よりも危険な場所となる。」でMike Mochizuki氏の見解を取りあげた。たとえ軍事基地自体を防衛することができても、地域住民の生命や財産に甚大な被害が生じるであろう。また、軍備拡張競争が軍事的緊張を高め、戦争勃発のリスクを高めるということもある。)

コロナ禍は、地震や津波同様、国家の安全保障上の一大事なのであり、厚労省の担当範囲をはるかに超えて、内閣の安全保障会議や防衛省の担当範囲にも属してしかるべき案件なのだ。事が国民の生命に関わることだからである。しかしコロナ禍に対する危機管理体制は、戦後日本の平和憲法のゆえにか、法制的にも組織的にも心理的にも不十分なものに留まり、世界一のベッド数を誇る我が国の医療体制が十分に機能することはなかった。(太字にしたのは引用者。)

232ページ

ここでも、テーマを広げすぎではないだろうか。安全保障会議防衛省が関与すればコロナ禍にたいする危機管理体制がうまくいき、医療体制が問題なく機能したという考えなのだろうか。

国防以外の危機管理体制の整備が必要であり、「感染症などの危機に対応する管理体制、とりわけ医療体制の整備」を「総合安全保障の枠組み」に組み込むべきだったというのが著者の見解のようである。

しかし、「総合安全保障の枠組み」の中に感染症などの危機における管理体制を入れるということは、日本の現在の医療体制を非常時にどのように編成しなおすということなのだろうか。そして、そうするために「戦後日本の平和憲法」がどのように障害になっているというのだろうか。

新型コロナウイルス感染症の拡大のなかで自衛隊を地方自治体に派遣することが話題になった。2020年12月11日付け「朝日アピタル」の記事のタイトルは、「自衛隊の看護師ら7人、大阪へ15日派遣 コロナ対応」であったが、この場合は、「大阪コロナ重症センター」と「府立中河内救急センター」に派遣され「重症者の看護や人工呼吸器の管理など」に当たったようだ。

公的機関で医療従事者が不足し医療体制が危機に瀕していたため、大阪府が要請したのであって、この場合、「特別な訓練」を受けている自衛隊の看護師らが派遣されなければならない状況だったということではない。また、防衛省や自衛隊の指揮下に大阪府の公的医療機関が入ったということでもない。

自由主義国家の危機管理体制は、… …非常時にのみ臨時的に発動され、危機が去れば可及的速やかに解除されるようなものでなければならない。

233ページ

著者はこれを「リベラルな危機管理体制」と呼んで「中国式の集権的危機管理体制」と区別している。「非常時にのみ臨時的に発動される」と説明しているが、感染症などの危機に対応する管理体制(とくに医療体制)として著者がどのような非集権的危機管理体制の構想を抱いているかは明らかでない。

国家安全保障会議と防衛省が関与すればよいということだけを考えているわけではないのであろう。(「国家安全保障会議の開催状況」を見ると、「緊急事態大臣会合」として新型コロナウイルスについての対応が議論されたようである。)

以上、「史上最大級のパンデミック」の節の一部について触れた。もう一つの節は,「生と死を見つめて」である。その中で著者は以下のように書いている。

(「死の認識」は)「生」には限りあると自覚した上で、限りある人生を有意義により善く生きるため、要するに「よい生」」のためにある。自らが「死すべき存在」であることを正視することによって、山なす財貨や地位や権力を積み上げ獲得しても空しい一場の夢にすぎないことを覚り、より人間的でより善良な人生を生きるためにあるのである。(太字にしたのは引用者。)

245−246ページ

この部分に異論を唱えるつもりはない。しかし、かつてハワードの田園都市論に関心をもったことがあり、この本のタイトルにひかれて購入した者としては、少々意外な展開であった。

また、「山なす財貨や地位や権力を積み上げ獲得しても空しい一場の夢にすぎないこと」は真実であろうが、学問としての経済学や政治学は、「財貨や地位や権力」がどのように社会的に「積み上げ」られるのかを分析することを放棄していいわけではないと思う。

最初の章は「いまなぜ田園都市国家構想なのか」なのであるが、最後の章(補章)から取りあげてみた。

2. 「はじめに」

「はじめに」では、執筆の意図が明確に書かれているように思われる。

最初に、専門分野を社会経済論と説明して、「市場経済」と「社会」との対立や矛盾を過度に強調せず、両者の関係を「調和的な観点」から捉えることを目指してきたという。

著者は、「長期的国家ビジョンの体系」としての「田園都市国家構想」(大平正芳首相)を再評価すべきと考えている。

序章では、長期的国家ビジョンの必要性という「基本的問題意識」が述べられると予告している。第1章では、中心的には報告書『田園都市国家の構想』の内容を解説し検討すると予告している。第2章では、エベネーザー・ハワードの田園都市構想の解説とその日本への影響を取りあげるとしている。第3章で、柳田国男が抱いていたと想定される「田園都市国家構想」について取りあげることを予告している。

第4章で、「著者自身の田園都市国家構想」が素描される。経済成長について著者は次のように考えている。

ITやAIやデジタル技術に使われるのでなく、それらを賢明に活用して、労働時間(含通勤時間)を短縮しつつ生産性を向上させ、高齢者の膨大な金融資産を活用して有効需要の落ち込みを防ぎ、高齢者などにも勤労を促すなどして労働力不足に対処などすれば、穏やかな経済成長は不可能ではない。(太字にしたのは引用者。)

14ページ

また、他方で、「高度経済成長によって痛めつけられてきた日本の家庭や地域コミュニティや自然や文化を、大平構想にあるように回復する」ことが重要であると考えていることがうかがわれる。そのために提案されているのは「バカンス制度(正月2週間、盆2週間、年間1カ月程度)」である。

また、大平構想の「総合安全保障戦略」に章の最後で言及しその先見の明を強調すると予告している。第4章に続くものは、私が最初に取りあげた最終章(「補章」)である。

「はじめに」を読んでみて、さまざまな興味深いテーマを扱っているが、それぞれについての著者独自の主張は断片的なものにならざるを得ないであろうという予感がした。「国家論」というのは、もう少し焦点を絞って論じられるべきなのではないかと思う。「都市計画」についても同じことが言える。

しかし、著者は、第3章「柳田国男の田園都市国家」の中で、「『国家構想』『国家ビジョン』という点ではハワードのそれは・・・・・・たかだか都市論の域を出ず」(151ページ)と書いているように、国家論(あるいは国家ビジョン)と都市論(あるいは都市計画)とを何としても結びつけなければならないという立場のようなので、ハワードの田園都市論も、それに対するジェイコブスの批判も、それだけを議論するのは意味がないということのようだ。

この本の副題は「大平正芳、E・ハワード、柳田国男の構想」となっている。なぜこの順序なのかと思っていたのだが、著者は、総合安全保障の枠組みを重視した「21世紀の田園都市国家構想」というものを描こうとし、その議論の素材として「大平正芳の田園都市国家」を位置づけ、その理論的背景にE・ハワードや柳田国男を想定したのであろう。ただし、E・ハワードの田園都市論は前述のごとく「たかだか都市論の域をでず」と評価されている。

本書には、さまざまな社会的課題についての興味深い分析や提言が含まれているが、それらは必ずしも詳細に述べられているわけではない。「大平構想を柳田の目から見たらどう見えるか」という表現が使われているように、本書の主題は、「自然、家庭、地方の復権を目指した自由主義的分権国家の構想」として、大平構想と「柳田構想」とが「類縁関係」にあるという思想史的考察なのであろう(151ページ)。

3. 「E・ハワードの田園都市」

序章と第1章はとばして第3章「E・ハワードの田園都市」を読んだ。

ハワードの思想と構想について著者は以下のようにとらえている。

産業化と市場経済化によってもたらされた人口過密の「都会砂漠」に、農村の太陽と緑を復活させることによって、労働者というより、「社会を防衛」しようとしたといってよいだろう。

79ページ

実際に建設されたレッチワース、ウェルウィン・ガーデンシティについては、理想通りにはいかず、「さまざまな階層、特に労働者層を一員としたコニュニティ」をつくることには失敗したと説明している(88−89ページ)。

さらに、著者は、J・ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』をとりあげて、どのような都市計画が望ましいかではなく、都市計画自体を否定する考え方を紹介している。

「ハワード流の『設計都市』あるいは日本の高度成長期に大都市近郊に叢生した公団団地群からは生まれにくい」のが「公的アイデンティティの感覚」であると述べて、ジェイコブスによる批判に共感を示している。(しかし、著者は根拠となるデータを示しているわけではない。)

しかし、ジェイコブスに欠けているものとして、「都市化、都会化によって失われたものもあるのではないかと問い直す複合的視点」があると指摘している(98ページ)。

「日本への導入」についての節は省略して、この章の最後の節である「何が問題とされてきたか」について取りあげてみよう。

ハワード構想を内務省地方局経由で継承した大平の田園都市国家構想の場合には、その名が示すように、初めから単なる「都市計画」ではなく、都市との農村、中央と地方、産業と家庭、コミュニティ・文化・自然の関係などを包含した総合的な国土計画あるいは国家計画になっている。

108ページ

筆者は、大平構想はむしろ「都市」と「農村」の問題を、国家的見地から、分権的国家形成の見地から考察し苦闘した、民俗学者というよりは農政学者としての柳田国男の国家構想を参照すべきだったと考える。

109ページ

「単なる都市計画」という表現が出てくるように、著者は、都市計画だけに焦点を合わせることに否定的であり、「国家構想」、「地方分権」、「分権的国家形成の見地」ということに強い関心を持っているようである。

しかし、「分権的国家」というものが、実際にどのように行政的にも財政的にも運営されるのかということについての議論は、この章までには取りあげられていない。そのようなことを取りあげるとしたら、議会制度や選挙制度も関係がある。

4. 「21世紀の田園都市国家」

第4章は、「穏やかな経済成長」、「家庭、地域コミュニティ、自然への配慮」、「『地方消滅』と人口現象の危機への対応」、「AIとITに負けない田園都市国家」、「田園都市国家の総合的安全保障」の5節からなっている。

期待外れの内容であった。興味深い分析や提言は含まれているのだが、それぞれが、より厳密に論じられるべきテーマであると思われる。既存の研究や提言に対するコメントを連ねているという印象だ。

最初の節「穏やかな経済成長」には以下のような提言もある。なぜ、このような提言がハワードの田園都市論などを詳しく論じた後に「田園都市国家構想」の一部として出てくるのかと思うと不思議でならない。

労働力不足をどうするかという問題は、以下のような提言であれば、ハワードや柳田国男などの名前を出さないで議論できるはずであり、当然のことながら、ハワードも柳田国男も言及されていない。

(労働供給を増やすには)、たとえば高齢者も健康である限り、たとえば70歳まで働き、税金を納め、年金支給時期をそこまで繰り上げれば、人手不足緩和と財政赤字抑制の両方に資することになる。この点でも、高齢者は、国の足手まといでなく、国の発展に貢献できる。

182ページ

「国の足手まといでなく」というような表現は、どういう発想から出てくるのだろうかと思う。「国の発展に貢献できる」という表現もおかしい。機能集団としての国家の重要性を否定するするつもりはないが、「国家の発展」のために個人が存在するという発想はいつのものであっただろうかと考える。

このように考えてくると、「高齢者の膨大な金融資産を活用して有効需要の落ち込みを防ぎ(14ページ)という提言も、高齢者のことを考えているわけでないことがはっきりする。

経済成長の必要性について著者は、「軍事力も国際政治力もほぼGDPに比例するといわれている現状の中で、どうやって、たとえば中国やロシアや北朝鮮などの恐るべき軍事力の増強に対応するのか」という問題意識を強調しており、「安全保障問題とその財源」をとりあげないとして「ゼロ成長論者」を批判している(179−180ページ)。

5. 「よみがえる田園都市国家」というタイトルについて

タイトルの意味するところを考えながら、これまでに取りあげてきたことをまとめてみよう。

「田園都市国家が蘇(よみがえ)る」とはそもそもどういう意味なのだろうか。「幕末日本を訪れた西洋人の目に映った『ガーデンタウン』あるいは『ガーデンシティ』」(73ページ)が現代によみがえったとか、よみがえらせようということがテーマではないとしたら、本書は、副題に最初に名前が出てくる大平正芳首相の「田園都市国家構想」を再評価しよみがえらせようという趣旨で執筆されたのであろう。

その構想は、「都市国家」を想定したものではないだろうから、田園都市は、国家全体を範囲とするものではない。「田園都市国家」が「多極重層構造」としてとらえられているということで、以下のように説明されている。

経済力や政治力などの点では、「大都市圏」を頂点、「田園都市圏」を底辺とするヒエラルヒー、すなわち「重層構造」を持つが、各都市・各地方・各部署の独立性や自主性が最大限尊重されているという意味では「多極構造」を持った分権的国家といってよい。

50ページ

このような考え方を再評価し現代によみがえらせるべきだというのが著者の主張なのであろう。

しかし、前述のごとく、興味深い分析や提言は含まれているのだが、それぞれが、より厳密に論じられるべきテーマであり、既存の研究や提言に対するコメントを連ねるだけでは不十分だという印象をぬぐいされない。

例えば、前述のごとく、労働力不足解消や財政赤字抑制に役立つとして取りあげられている年金支給開始年齢の繰上げなどは、田園都市構想等をめぐる議論と並べて取りあげる必要があっただろうか。

都市計画の問題に視野を限定しても、ハワードの田園都市構想を「たかだか都市論の域をでず」と著者が評価していたり、「ハワード流の『設計都市』あるいは日本の高度成長期に大都市近郊に叢生した公団団地群からは生まれにくい」のが「公的アイデンティティの感覚」であるとデータなしに断定的に述べている。

また、実際に建設されたレッチワース等が、理想通りにはいかず、「さまざまな階層、特に労働者層を一員としたコニュニティ」をつくることには失敗したと前述のごとく説明している。

著者はハワードの田園都市構想をこのようにおおむね否定的にとらえているが、日本の各地に林立する「タワマン」——日本版のgated communityと化している——については、どのような評価をしているのだろうかと思う。

都市計画や住宅政策の範囲に絞っても、厳密に論じられるべきさまざまな論点があると思われるので、ガーデン・シティが「非常事態」にどう向き合うかというテーマの設定には無理があったのではないかと考えざるを得ない。

「今までに実施された弾道ミサイルを想定した住民避難訓練における様々な場面での避難行動の例」が、「内閣官房国民保護ポータルサイト」にあった。これでいいということなのだろうか、それとも、これではダメだから考えようということなのだろうか。

https://www.kokuminhogo.go.jp


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レッチワースで2008年8月に撮った写真を5枚載せてみる。

J・ジェイコブスのように都市計画自体を拒否する考え方がおかしいことは、レッチワースを訪れてみなくてもわかるはずである。



関連資料


国家安全保障会議の開催状況

国家安全保障会議 開催状況

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