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東日本大震災①

2011.3.11

震災から今年で10年となりました。

岩手県の海沿いに住んでいたわたしは

目の前で津波を目撃しました。

ありきたりですが

今思うこと

そして備忘録として

当時のことを綴ります。

長くなるかもしれませんが

読んでくださる方は

お付き合いください。






当時わたしは16歳で高校1年生でした。

高校の春期講習があったわたしは

1年生クラスのある校舎4階、

Cクラスにいました。

あのときは確か英語の授業だったと思います。

14時46分

大きな地震が起こりました。

4階なのですごい揺れで

避難訓練で机の下に隠れる

へらへらと訓練に参加していたわたしも

さすがに笑わずに机の下へと

潜り込みました。

一斉に鳴り響く携帯の緊急アラーム

それだけでも

これからくる何かの

すごさを物語っていました。

それから暫くして

机の下で携帯をいじり

東京の親戚へ現状報告

かろうじてまだ電波が繋がっていました。

父は仕事で海外の海にいるから

おそらく無事。

家も山の方だから

母、祖父、祖母は無事だろう。

母方の祖母は家が海の近く。

ただ、本人も自覚してるくらい

強運の持ち主なので

おそらく生きてるだろう。

(ごめん、おばあちゃん。)

兄も青森の内陸部にある大学にいるから

無事だろう。

と、なんとなく家族が大丈夫かが

頭を巡りました。

その後、クラス待機を言い渡されて

自分の椅子に座っていたところ

窓の外からすごい光景が見えました。

校庭の向こう側に川があって

河川敷があるのですが

その河川敷がすべて水で

覆われていたのです。

幸い校庭の方へ

水が超えてくることはありませんでした。

毎日汽車で通っていたわたしは

その線路が水で流されたのを見て

あ、今日は家に帰れないな

と思いました。

不思議と不安じゃなかったのは

一緒に通っていた地元の友人が

大勢いたからかもしれません。

その日は親が迎えに来れた生徒だけが

帰宅して、ほとんどの生徒は

学校で1泊する形となりました。

ほんの一口サイズのおにぎりを食べ、

体育館などで使われる

黒い大きな幕でからだを包み

友人と寄り添いあって寒さをしのぎました。

固い床と固い椅子の感覚。

3月の夜、暖房もない教室は

とても寒かったです。

そんな中、

歌がうまい一人のクラスの女の子が

教室でHYの歌を歌ってくれた記憶があります。

本当に長い夜でした。

朝が来て、教室から朝焼けを見ました。

そのとき一緒に寄り添って寝た友人と。

そして、不思議とキレイに感じた朝焼けの

写真をとりました。

2日目も学校へ泊まりました。

市内の友人は親が迎えに来て

ぞくぞくと帰宅していきます。

隣町から通っていたわたしは

同じ部活で同じ地元から来ていた友人と

時間を過ごしていました。

生徒が少なくなるにつれ

食事や寝床はどんどんよくなっていきました。

家庭科室でおにぎりを握った記憶があります。

他の時間はラジオを聞いたり

学校の掃除をしたり

たまに体育館でバスケをしたり

外をぼーっと眺めたり

何をしていたんだろうと

たまに思い返しますが

はっきりとは思い出せません。

3日目か4日目かに

母が迎えにきました。

すごい剣幕でした。

帰宅した生徒リストに名前を書いて

車に乗りました。

母は怖くて見に行けないけど

地元がすごいことになっている

普通の道路は通れなくて

山の道路からきた

と言っていました。

そして大きなスーパーに寄って

買い物をすると言うので

わたしは車の中で待っていました。

車に戻った母は

かろうじて買えたお惣菜のおにぎりを

むしゃむしゃと

一心不乱に食べました。

その姿を見て

少し、卑しいと思ってしまいました。

なんでそんなに急いで食べるの?と

顔をしかめるわたしに

母は

そんなこと言ってられない

と言いました。

家に戻ってその言葉の意味が

わかりました。

母がこわくて街に行けないと言うので

一緒に行こうと自転車を走らせました。

すると、記憶の中のふるさとが

一変していました。

一言でいうと

戦争もののドラマに出てくる

東京大空襲で焼けた町並

そのものでした。

黒か灰色か白

そんな世界が目の前に広がっていました。

馴染みのスーパーは

外側の鉄筋だけ残り

その駐車場にあった

灯油コーナーの2m程の入れ物が

逆さになって地面に突き刺さっている。

これは現実なのかと

目を疑いました。

真っ黒に焼けた車

津波で流されるというより

ガス爆発が連鎖して

町中が大火事になったことが

その景色からわかりました。

当たり前はないと今は思います。

その景色を見たという経験からです。

そこからまた少し街を歩いていると

毛布の塊が地面に落ちていました。

そこにいた人から

こっちを見るんでない!

と言われました。

後から、

それが死体なんだと気づきました。

それから山を通って

自宅に戻る途中

小中高が同じ友人と車ですれ違いました。

何を話したかは覚えていません。

でも、少しほっとしました。

家に帰るともう疲れきっていました。

不思議と涙は出ませんでした。

未知の経験すぎて

これからどうなるかなんて

検討が全くつきませんでた。

食料と水をどうするのか

学校はどうなるのか

家族にいつ連絡がくるのか

そのときのわたしは

何を考えていたのでしょう。

何を思って生きていたのか。

ただある目の前の現実を

やり過ごしていた。

ただ生きていた。

そんな感覚です。

唯一安否が心配だった母方の祖母は

地震直後は海のそばにいたものの

自力で山の方まで逃げて

水に濡れることなく

無事でいてくれました。

本当によかったです。

わたしが心配するまでもなく

祖母は生きていると何となくの

感覚はありましたが

それでも家族全員無事で家も流されず

という状況は

あの当時の同世代、友人からすると

かなり恵まれていたのではと思います。

そんなこんなで

学校から無事家に帰宅したわけですが

ひとまずここで区切ります。

続きはまた追追。

冷たいと思われるかもしれませんが

この文を書いている今も

涙は出ません。

震災が来る前の

ふるさとに戻りたい

とは思います。

大変だったでしょうと

言われることがありますが

正直言うと

わたしはそんなに大変ではなかったです。

もっともっと大変な人は

まわりに大勢いました。

ただ、この事実を文章として残します。

それでは。

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