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US HIPHOPの歴史#03

 前の記事からも読み取れるようにアメリカにおいてHIPHOPとギャングのつながりは深い。ギャングが日常をうたったHIPHOPソングをギャングスタラップといい、1980後期からギャングスタラップが世間に世間に広く知られるようになります。今でもそこから派生したジャンルは、人気があります。今回は、ギャングスタラップの発展と世間から認知されていった歴史を掘り下げます。
 
 最初のギャングスタラップの曲は、1985年にフィラデルフィアのラッパーScholly Dが出した「PSK, What Does It Mean?」という曲です。この曲が、ロサンゼルスのIce-Tに伝わり、Ice-Tが「6’N the mornin’」という曲を出したことでロサンゼルスでもギャングスタラップが始まります。この時、この二人のラッパーがギャングスタラップをしていた背景には、1980年代のクラックの流行とレーガン大統領がクラックを厳罰化して黒人を逮捕することで白人からの支持を受けようとしていて、黒人のコミュニティーや家庭が崩壊していたことがあります。
 
 こんな時代に現れたのが、ギャングスタラップの権化ともいえるN.W.A.でした。N.W.A.は黒人が警官から受けた暴力などを曲にしていて、多くの黒人たちからは評価受けていましたが、政府に喧嘩を打ったような内容によりFBIに目をつけられたり、ミュージックビデオの放映が禁止されたりするなどして最終的には当時の副大統領がテレビでギャングスタラップのテレビやラジオでの放送を禁止すると宣言しました。ですが、この発言により怖いもの見たさでギャングスタラップを聞く人が増えました。そんな中、1987年に19歳の黒人の少年が警官に射殺されたが、その警官が無罪になったという事件やセントラルパーク・ジョガー事件が起こり、世間の人々がN.W.A.などのラッパーが歌っている内容は事実であることに気づき始めました。

 また、上記の事件から黒人たちの権利の代弁者としてPublic Enemyが登場し、セントラル・ジョガー事件の2か月後「Fight the Power」という曲を発表しました。この曲は、アメリカ国内外の黒人差別問題のデモのとき流され大きな影響を与える曲となりました。

 N.W.A.は1991年に「Niggaz4Life」というアルバムをラジオの助けなしにビルボード1位を記録したことで、ギャングスタラップがアメリカで流行していることを証明しました。また、この年、ビルボードが機械的に売上を集計できるサウンドスキャンを導入し、今までレコード屋などの自己申告制であった実際の流行とは違ったランキングから実際の売上に基づいたランキングを出せるようになった。その結果、HIPHOPとNIRVANAをはじめとするグランジなどのアンダーグラウンドなジャンルにも正当な評価がつくようになりました。さらに、サウンドスキャンによりギャングスタラップがヒットした裏には、ストリートの生活とは縁のない白人の若者の多くがギャングスタラップを聞いていたことが明らかになりました。
 
 ギャングスタラップは、アメリカ全土に広まり、アメリカ南部では、ニューオリンズのMaster PがLAにおけるHIPHOPのサウンドの基礎を築きました。また、マイアミではポルノラップで有名になった2LiveCrewが曲の内容で物議をかもし、これにより過激なアルバムにParental Advisoryが張られるようになりました。

 ギャングスタラップは、ギャングがただ日常を歌うというモノではなく、黒人たちが社会からの扱いに反抗した曲であり、ギャングという暴力のイメージとは異なった社会派のラップであったことは驚きでした。だからこそ、世間から注目されるように思われる。