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US HIPHOPの歴史#07

 ギャングスタラップの熱が冷めてからの1990年代後期のHIPHOPシーンは、ストリートと反したラッパーのイメージを持たせる業界に対して反発するように全国各地でサイファーやラップバトルが熱を持ち始めるといったHIPHOPシーンの変化やギャングスタラップからサンプリングのない曲やR&Bと融合した曲などが主流になるような音楽的変化のあった時代でした。
 
1990年代後期、ギャングスタラップの熱が冷め、ラッパーにFlexさせるというようなPuff Daddyのセルアウトした経営戦略を好ましく思わなかった人が多く、アメリカ各地でラップバトルやサイファーが盛り上がりました。これにより、ラップバトルで勝ち上がり有名になったEminemがHIPHOPに登場しました。彼は、全国各地のラップバトルをまわる際に、バトルを行った地域で、自身のミックステープを配っていました。それがDr.Dreの手に渡ったことで、才能が認められEminemはDr.Dreのレーベルに所属することになりました。その後、Dreのプロデュースのもと曲を制作し、白人が不利だったHIPHOPシーンで有名になり、世界的なアーティストとなりました

引用元:https://nme-jp.com/

 ギャングスタラップの熱があった時代までは、サンプリングがビートの主流でした。しかし、ラッパーが有名になるにつれて著作権の問題が増え、サンプリング元の使用料が高騰したため、1990年代終わりは、サンプリングではなく完全にオリジナルのビートが主流になりました。
 
 1980年代から1990年代初期にかけてR&BとHIPHOPを混ぜたNewJackSwingという音楽ジャンルで人気があったTeddy Rileyというプロデューサーが、ニューヨークからヴァージニアに引っ越すことになり、まだHIPHOPが根付いていなかったヴァージニアで新しい才能を発掘するためにオーディションを開催しました。そのオーディションによって、Chad HugoとPharrell WilliamsのユニットThe Neptunesが発掘されました。彼らは、彼ら自身が曲を出すだけではなく、Snoop Doggの「Drop It Like It’s Hot」やTeriyaki Boysの「Tokyo Drift」などの他HIPHOPアーティストのプロデュースに加えて、POPやR&Bなど多くのジャンルでプロデューサーを務めました。また、同じ地域出身でPharrellと親しかったTimbalandはHIPHOPとR&Bを混ぜたようなサウンドで主に女性アーティストのプロデュースをしたことで女性アーティストの活躍の場を広げました。

引用元:https://www.discogs.com/

 ニューヨークでは、RUFFRYDERS Recordsに所属するSwizz Beatzというプロデューサーが電子音を使い、DMXなどのヤンチャ系のラッパーたちをプロデュースしていました。特に、DMXはロサンゼルスでいうSnoopDogg並みにニューヨークで人気がありました。
 
 
 1990年代後期のR&BとHIPHOPの融合という流れで忘れてはいけない人物がLauryn Hilです。元々Fugeesというトリオで活躍していたLauryn Hillが1998年にリリースした「The Miseducation of Lauryn Hill」というアルバムがジャンルの垣根を越えて、グラミー賞で10部門でノミネートされ、5部門受賞し、年間最優秀アルバム賞を受賞した史上初のHIPHOPアルバムとなったことで新たな歴史を作りました。Lauryn Hillは、HIPHOPとR&Bを融合したサウンドだけでなく、女性に向けた道徳的な内容を歌詞にしていたことで、多くの支持を集めました。

引用元:https://www.capitalxtra.com/

 1990年代後期、ギャングスタラップ時代が終わってから以上のような変化が起こることでHIPHOPという音楽の幅が広がり、黒人男性がラッパーのほとんどでしたが、黒人女性や白人もHIPHOPシーンの中で活躍できる場が広がりました。次回の記事では、2000年初期のMotownサウンドや、KanyeWestのプロデューサー時代について触れていこうと思います。