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【感想】ippatu『虎鶫』

※注意 本記事は、漫画「虎鶫」のストーリーの核心に関するネタバレを含みます。

本作は、漫画家のippatu氏が2021年から2023年までのあいだ、講談社の「ヤングマガジン」に連載していた作品である。核戦争によって人が住めなくなった未来の日本列島を舞台に、主人公のレオーネが最愛の女性に再会するため、ある目的を果たそうと旅をする、そんな物語だ。

▶ippatu氏の公式Twitter

本作の導入部分のあらすじを簡単に説明すると、次のようになる。

舞台は核戦争によって人が住めない土地となった「旧日本」。主人公のレオーネは、無実の罪で捕まり、フランスから旧日本に強制的に派遣された死刑囚たちの一人。目的は、核戦争の引き金となった秘密兵器、「TORATSUGUMI」を他国に先駆けて発見し、回収すること。拒否権はなく、逆らえば死刑。トラツグミを持ち帰ることができれば免罪となる。

レオーネたちは拘束された状態のまま、飛行機に乗せられて旧日本へと運ばれる。道中、ドゥドゥという陽気な囚人に話しかけられ、何をやらかして捕まったのかと尋ねられる。

その時、レオーネたちの乗っていた機体が原因不明のダメージを受け、コントロールを失ったまま墜落する。衝撃で機体から投げ出されたレオーネは、たった一人で見知らぬ浜辺に漂着する。廃墟と化した東京で、異形の少女「つぐみ」や巨大な獣「とら」に出会い、様々な種族の生物たちと出会いながら、レオーネは秘密兵器を目指して旅を続けていく。

初めに断っておくと、私は、普段から作品の感想というものをめったに書かない。己の内心を他人に説明するのが、あまり得意ではないのだ。

「おもしろかった」
「こわかった」
「楽しかった」
「感動した」

こんな漠然とした印象レベルの話ならいくらでもできるが、なぜ面白いと思ったのか、どこがどう怖くて、楽しくて、感動したのか……つまり自分の評価を、そこに至る理由や根拠とともに提示することが苦手で、どうしても内容が薄っぺらくなってしまうので、それならば書かない方がマシだとさえ思っていたのだ。

だから、昨年には読み終えていた本作の感想も、なかなか書くことができなかったのだけれども、いずれ書きたいとは思っていた。なぜなら、私が物語を書こうと思う最初のきっかけになった人物が、本作の原作者であるippatu氏だからである。

ippatu氏は、「カニ人」というもう一つの顔を持っている。カニ人がどういうものか、言葉で説明するよりも、実際に見てもらった方が早い。

▶カニ人公式Twitter

▶カニ人公式サイト

「カニ人=ippatu氏」という説もあれば、両者は盟友であるという話もある。実はippatu氏は密かに買収され、彼らの人類滅亡計画の片棒を担いでいる獅子身中の虫、という噂もまことしやかにささやかれているが、真偽のほどは定かでない。

アカウントの黎明期からカニ人を知っていたわけではない。その存在を認知したのは2018年だったとは思うが、その頃にはすでに結構な数の人魚ちゃんが登場していたと記憶している。

ニンゲンと非人間とのパーツの配分・配置が絶妙で、リアルな生物感を伴いながらも、美しさと、格好よさと、可愛さをも兼ね備えている、性癖をクリティカルに直撃する人魚ちゃんのデザインもさることながら、主役であるカニ人の生態と、それを取り巻くカニ人ワールドそのものの広さと奥深さに魅了された私は、「この世界観をベースに、何か自分でも物語を書いてみたい」という強烈な欲求に衝き動かされ、生まれて初めての小説を書いた。

かつてpixivにアップしたその作品は、今は諸事情あって削除してしまったが、それから約5年と数か月、私はカニ人が言うところの「ヘンタイモジカキニンゲン」として、いくつかのカニ人小説を書き上げてnoteで発表した。

物語を作り、それを小説の形にする楽しさと、そのきっかけを私に与えてくれたのは、「カニ人=ippatu氏」なのである。

ゆえに本記事は、氏に対する私からの一方的な恩返しのつもりで書いた。どれだけ拙い内容になってしまおうとも、「虎鶫」という作品に対して真摯に向き合い、自分がどういう感想を抱いたか、それだけは書き記しておかねばならないと思ったのである。

◆◆◆

さて、肝心の虎鶫の感想だ。読んだ者によって様々な意見はあろうが、私は、本作で最も重要なテーマは、何よりも「ヒロインであるつぐみの精神的成長」だと思っている。社会性を持たず、善悪の区別も知らなかった子供が、他者を慮れる大人へと育っていく姿を、丹念に、時間をかけて描いている。

レオーネと出会ったばかりの頃のつぐみは、言葉は話せるけれども、その振る舞いはまさに野生動物そのものだった。やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。恐れずに自分の意見を主張し、邪魔するものは実力で排除する。気に入った者は助け、敵対する者は容赦なく命を奪う。都合が悪くなると、仲間に対しても平気で洒落にならないうそをつき、ごまかそうとする。

(以下、画像はすべて虎鶫の単行本から引用)

どう控えめに見ても、いわゆる「よい子」とは言えない。子供の子供らしさを許容する精神的余裕を失いつつある現代の読者の眼には、つぐみは「性格の悪い、嫌な子供だ」と映るのではないか。岸部露伴の言葉を借りれば、「こんなヤツをマンガに描いても読者に好かれるはずがない」というやつだ。

なぜ作者であるippatu氏は、つぐみというキャラクターを作り出すにあたり、万人向けの可愛くて素直な子供という設定にしなかったのだろうか。それはおそらく、そういう「いかにも大人ウケしそうな子供」というありがちな人物造形が、ippatu氏の描きたいキャラクターとは乖離していたからだと思う。

先ほども書いたが、現代人は、子供の子供らしさを許容する精神的余裕を失いつつある。皆さんもお手元にあるブラウザを開き、検索エンジンに「子供 嫌い」とか「子供 迷惑」とかの適当なワードを入れてみてほしい。そこそこの数の記事がヒットするだろう。

私も別に人格者というわけではないし、これまでの人生で、思わず正気を疑うほどの礼儀知らずの子供連れを見かけたことも一度や二度ではないから、「子供嫌い」の人たちの言い分にも少しは共感できるつもりだ。「嫌いなのは子供ではなく、迷惑行為をする我が子を制止しない親だ」という意見もあるかもしれないが、今はそこは本題ではないので置いておく。重要なのは、ippatu氏は意図的につぐみをああいう性格に設定したのだろうということだ。

「大人のいうことに素直に従う」
「聞き分けがよい」
「わがままも不平も言わない」
「癇癪も起こさない」

確かにこういった子供のキャラクターは読者の人気を得やすく、ウケもいいが、実際にはこの世には存在しない、架空の存在に近いものだ。それは「リアリティのある子供の造形」ではなく、単にそれを読んだ「大人」がストレスを受けないための、ある意味では「接待」に近いキャラ付けの仕方といえる。そこにリアリティはまったくない。

そういった「ファンタジー的存在としての子供」を主要キャラとして設定することは、本作のテーマである「つぐみの精神的成長」にはそぐわない。なぜなら、それが全くリアリティを伴わない人物造形である限り、その子供は永遠に子供のままで、葛藤も成長もしないからである。

社会性を一切持ち合わせていなかったつぐみが変わるきっかけは、主人公であるレオーネとの邂逅だ。彼が口にした「佐渡」という言葉が、彼女の記憶と精神にかかった何らかの蓋をこじ開けた。

◯トビザルに対する正体不明の恐怖感
◯華猴人さたけへのライバル意識
◯イカホで「みかづち」から受けた折檻の恐怖
◯トビザル変異体「はぐれもの」のトラウマ
◯亡き両親の記憶
◯レオーネの死と再生
◯「ゴンゲン=しろ」との邂逅
◯祖父「オオクニヌシ」との再会と善悪の概念

様々な経験を通して、つぐみは悩み、葛藤し、成長していく。それは、単純な一本道ではない。成長したかと思えば、次の巻では元に戻ってしまったかのような傍若無人っぷりを発揮することもある。同じところを何度もぐるぐると回っているような印象を受けるが、しかし着実に力を蓄え、最終巻でそれは一気に爆発する。

──とら、おまえはここにいろ。そいつまもれ。それがおまえの『今』だ。
──つぐみはレオーネをまもる。これがつぐみの『今』だ。

レオーネとつぐみは、対比的な存在として設定されていると思われる。前者は元少年兵。善悪の区別を知る以前から人を殺さざるを得ない状況に引きずりこまれ、後には自ら望んで殺すようになり、他人のために感情を抑える術を知らなかった。後者は赤子の時に両親を失い、弟のとらと、たった二人で野生暮らしをしてきた。

レオーネは後に妻となるマリと出会い、社会性と思いやりの心を身につける。対するつぐみは、最初からとらが一緒にいたとはいえ、とらは獣なので社会性は身につかない。だが弟を守らなければならないという、家族に対する愛情のようなものだけはあった。それがレオーネに出会うことで、封印していた佐渡の記憶を思い出し、ドゥドゥや、さたけなど様々な登場人物たちとの交流を通じて精神的に成長し、ついには他者に対する思いやりの心を身につけた。

──つぐみ触られるの怖かった。あれからそれなおった。こうやって手とか引っぱる、つぐみだめだった。こわかった。
──でもこわくなくなった。レオーネのおかげ!
──Merci(ありがとう)

後述する「のづち」との死闘を通じ、つぐみは己の中にあるレオーネへの感情を自覚する。

守りたいものができた。しかし、すでに他の人に守られているものは守れない。レオーネはもうマリに守られているから、つぐみにはレオーネを守ることはできないのだ。

これまでのつぐみなら、自分の欲求を優先し、力ずくでもレオーネを自分のものにしようとしていただろう。物語の序盤で、レオーネに接近してきたさたけの殺害を考えていたことからも、それは明らかだ。

だが、つぐみは精神的に成長した。「大人」になり、他者の心情を内面化することができるようになったのだ。

──だから行け。まもられろ。

このシーンが、ずっと脳裏に焼き付いている。右腕を失い、顔が裂け、右眼球が飛び出すほどの重傷を受けながらも、レオーネにそう言ったつぐみの姿は、これまでとは見違えるほどに美しかった。

愛する者と一緒にいたいが、彼の隣にいるべきなのは自分ではないという葛藤と向き合い、それを乗り越える覚悟を決めた左眼は、もうかつての子供のものではない。

TVアニメ「SSSS.DYNAZENON」の台詞を引用すれば、つぐみは、「無上の自由」を手に入れる代わりに、どこまでも進んでいくことのできる「かけがえのない不自由」を手に入れたのだ。

◆◆◆

レオーネの他に、もう一人、つぐみと対比的な存在として描かれているキャラクターがいる。それは、のづちだ。

つぐみは、飛翔能力は持たないが、閉鎖空間においては作中最強の個体すら翻弄する戦闘能力を発揮する<瓦礫の女王>。対するのづちは、齢3歳にして、他の誰も追いつけない、佐渡最強の戦士とされるアメノハバキリに飛行能力で追いつくほどの<天才>

どちらも自我が強く、暴力に訴える性向があり、自分の意見を恐れずに主張する性格であるというのも、ある程度似通っている。

だが、この二人には決定的に違う点がある。それは、二人に対する周囲の「大人」の接し方だ。

レオーネも、それからさたけもそうだが、つぐみの奔放な言動を、頭ごなしに全否定することはない。さたけは皮肉まじりにたしなめることもあるが、それはつぐみ自身の成長を期待しているがゆえのものだ。

つぐみ自身の力が強いため、あまり強く叱責すると暴力に訴えてくる恐れがあるということもあるが、基本的には過度に干渉せず、見守る立場を崩さない。そうすることで、つぐみ自身が自ら過ちに気づき、反省し、成長することができる。これは、彼らがつぐみ自身の人格を尊重しているからこそ、できる対応なのだ。

対して、のづちの方はといえば、これはつぐみの置かれている状況とは正反対といえるだろう。慕っていたアメノハバキリに見捨てられ、一族の命により、実兄であるやまつみの許嫁にさせられた。彼女の意見は無視される。アメノハバキリにも、一族にも。誰も彼女の声に耳を貸すことはない。「大人」たちは自分たちの思惑に従って行動し、彼女はそれに従わざるを得ない。

だから、彼女が自らの一族を裏切り、家族を皆殺しにし、ついには片想いの相手であるアメノハバキリすら殺そうとしたのは、ある意味では当然の成り行きだったといえるだろう。周囲の大人たちの接し方が、のづちをあのような状況に追い込んだといっても過言ではないのだ。

◆◆◆

最後に、本作の終わり方についても述べておきたい。のづち&はぐれものとの最終決戦後、つぐみたちに助けられ、軍用機で一人大陸に戻ろうとしていたレオーネだったが、オートパイロットの機体が「ベトナムカンボジア連邦」の領空内に侵入してしまい、無線機で言葉が通じなかったことから、敵機とみなされて撃墜されてしまった。

そして、機内に持ち込んでいた「新型鳥インフルエンザBNS TTT」のサンプルが破損、大陸にばらまかれた結果パンデミックが発生、その後3年間であっという間に人類は滅亡した。

この幕引きについて、「唐突すぎる」という感想を目にしたことがある。だが、私はこの終わり方は、本作においては必然だったのではないかと思う。

この虎鶫という作品において、旧日本とは数百年前に失われてしまった、ある意味では「異世界」のようなところだ。強度の放射線によって人間は足を踏み入れることができず、200年間の核の冬によって日本人に関する記録もほとんど失われた。

かつての日本の文化も、言語も、その痕跡は大陸には微塵も残っていない。ゆえに、旧日本ひいてはそこに住むつぐみとは、本作における「虚構」や「幻想」、つまりはファンタジーの象徴とみなすことができる。

対するレオーネは、大陸からやってきた人間であり、本作における「現実」を象徴する。そのレオーネは、重度の放射線被爆によって、作中で本当に一度死亡する。だが、たまが発見した薬を投与することで、体内の残留放射性物質が除去され、さらに遺伝子が変異を起こすことで、人間とは別の生物として蘇る。

同族との交配が不可能となったレオーネ変異体は、すでに厳密な意味での人間とは呼べない。妻であるマリや、大陸の住民たちとは違うカテゴリの生物になってしまったのだ。

これはつまり、レオーネが「虚構」を自らに取り込んだことを意味する。本来は「現実=大陸」を象徴するはずの存在だった彼が、一度死を経験することで「虚構」に侵食されてしまったのだ。だから、レオーネはもう「現実=大陸」には戻れなくなった。それは、カグツチの火によって陰部を焼かれ死亡したイザナミが、黄泉の国の食物を口にすることで夫のいる現世に帰ることができなくなってしまったように。

この時点で、レオーネが所属する領域は「現実=大陸」ではなく、「虚構=旧日本」に変わってしまっていたのだが、彼はそれに気づいていなかったのだ。

そんなレオーネは、最後まで大陸への帰還を諦めない。マリがいる「現実=大陸」へ戻るために、ここまで多くの犠牲を払ってきたのだから、今さら自分だけが逃げることなどできないと。しかし、物語を象徴的なレベルで捉えると、それはもはや不可能な話だった。

レオーネ変異体が軍用機を使ってベトナムカンボジア連邦に到達したことは、「虚構」の存在が「現実」に越境したことを意味する。その結果としてどうなったかといえば、代わりに「現実=大陸」の方が崩壊したのだ。たまが発見した鳥インフルエンザウイルスがばらまかれ、たった三年で人類社会は壊滅した。かつては「現実=大陸」にぽっかり空いた穴のようだった「虚構=旧日本」から異形の種族たちがあふれ出し、文字通り世界がひっくり返った。

本作の世界観の今後を推察するに、おそらく旧日本の代わりに、今後は生き残った人間のコミュニティが、この世界における「虚構」に該当するようになるのだろう。どんなウイルスであれ、免疫を持つ人間が数%は存在しており、レオーネはマリがそこにいると信じている。その一縷の希望を、ともすれば折れそうになる心を支えるよすがとしている。

だが、悲観的な私見を述べさせてもらえば、たとえ再会が叶ったとしても、このままでは二人は一緒にはなれないのではないかと思う。此岸と彼岸、現実と虚構、二人はすでに住む世界が違うからだ。マリが「虚構=異形」を身の内にとりこむのか、それともレオーネが新たな『今』を見つけるのか、いずれにせよ、彼の旅はまだまだ簡単には終わりそうもない。

◆◆◆

以上が、私が『虎鶫』という作品に抱いた感想である。本作を読み、感じ、考えさせられたことを、できるだけ理由や根拠を交えて、真摯に述べてみたつもりだ。当初の想定よりもかなり文章が長くなってしまったが、そこはそれ、私がどれだけこの作品に思い入れがあるかということで、どうかご容赦願いたい。

ippatu氏は現在、次回作を鋭意執筆中だという。カニ人もそうだが、氏の持つ世界観は、私のような者には計り知れないほどの深みと奥行きを持っている。次はどんなワクワクする世界を見せてくれるのか、一人のファンとして、次回作の発表を心待ちにするものである。

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