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『裸のニッキー』 長編恋愛詩(3/3)

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第六景 その瞬間、あるいは「はじめましてニッキー」


―― Well... What am I supposed to do...? It's my first time here... around this kind of place... and on this kind of... chair...

   で‥‥‥どうすればいいの? こういう店、初めてなんだけど‥‥‥こんな椅子なんかもさ‥‥‥。

―― Really? A-hha! You are nervous, aren't you? Don't worry! It's easy!

   ホントに? キャッハ! 緊張してるの? 心配しないの! 簡単なんだから!

―― No way. Everything makes me nervous. My heart is coming out of my mouth.

   そんなの無理だよ。緊張するよ。心臓が口から飛び出しそうだ。

―― Well, then! I'm gonna sit on the chair, and you will dance around me!

   じゃあね、まず私がそこに座るから、あなたは私のまわりで踊るの!

―― W, what...? You!

   え‥‥‥? あのねぇ!

―― Ah-hha!

   キャッハ!

 黒のベアトップロングドレスのニッキーが、僕のラップ――つまり膝の上に全体重を乗せているニッキーが、身体を揺らして無邪気に笑った。

 それが〝ラップダンス〟というものの作法なのかどうか、僕にはわからない。

 彼女は僕の肩に、とても自然に左腕を回しかけていて、なぜだか遠くを――店内の喧噪やらなにやらを見やりながら、とても心地よさそうにしている。

 僕も、彼女の重みを心地よく感じながら、彼女の横顔を思う存分見つめている。

 音楽と喧騒の入り混じった中で、Your lips――、

「君の口紅‥‥‥」

 呟いてみる、と、まるで当然そうあってしかるべきかのように、僕の鼻先に触れそうなところまで、白い頬が降りてくる。

「ン? なに?」

「き、君の口紅だよ、君の唇‥‥‥」

「私の唇?」

「バーガンディ色なんだね」

「好きじゃない?」

「いや、好きさ。大好きさ」

「そう? よかったわ。踊るときはこの色なの。普段は違うのよ」

 店内に流れる楽曲を選んでいた――それが、そのときその場の彼女だったのかもしれない。三、四曲はスルーしたように思われるから、たぶん一〇分か、一五分か、僕は彼女とそのままそこで――つまり、凡庸でくだらない俗世間連中から距離を置いた壁際の暗がりで、ポツンと置かれたソファ椅子の上に重なって座って、不完全ながらも一応の〝二人きり〟になって、いろいろなことを語り合っていた。

「Is it LEGAL to ask a girl her name around here? こういう店では、女の子に名前を訊いたりしてもいいの?」

 法的に許されているのか――と、回りくどい問い方をしてみたのは、気取ったのか、それともまだ構えていたのか、どっちだったろう‥‥‥。

「Of course! もちろんいいわよ!」

 いったいあれはなんだろう‥‥‥どういうことなんだろう‥‥‥彼女の名前を聞いて、驚いてしまったのは‥‥‥。

 I'm Nikki!

 アイム・ニッキー!

 そんなことは長年生きていて、後にも先にもそれっきりだ。ありえないほどに、ありえない。だれかの名前を聞いて、ドキンと胸が鳴り、なにかが腑に落ちたように、〝驚く〟などは。

「Oh, Yeah? Real?」

 目を見開いて僕は言った。

「そうなの? ホントに? That's really YOU! 君にぴったりだ!」

 本当にニッキーはニッキーらしかったのだ。どこから見てもニッキーはニッキーで、当たり前のようにニッキーだった。

「ニッキー‥‥‥」

 呼んでみる。

「ン?」

 光を宿した黒い瞳が

 くるりときらめいて

 こちらを向く

「Nikki...?」

「Hm?」

 見つめられて

 僕はやっぱり俯向く

 俯向きながら言う――

 Nice to meet you, Nikki...

 はじめまして、ニッキー‥‥‥

 一拍の間を置いて――

「キャッハ!」

 弾けるような笑い声が返ってきて

 闇を明るく染めた

 サッと、僕のフランネルシャツの胸ポケットから、いつもそこに挿している仕事用の細い油性ペン(そこにそれがあることに気づいていたのだね)を抜き取り――、

「And, you are?」

 ニッキーは、マイクのように僕の鼻先に突き付ける。

 僕は答えず、少し身をよじって、彼女の手からペンを取り、いつもの癖でキャップを口で咥えて外し、自分の左手の甲の親指あたりに文字を書こうとする。

 すると、薄暗がりにも白い手のひらが、そこに重なる。

 K I Y O

 躊躇うことなく書いたのは、僕を見つめる強い視線のせいだった。

 女の子は、自分の左手を胸に引き寄せ、眺め、読みにくいはずの東洋名のスペルを――、

「キヨ、キヨ、キヨ」

 首を左右に小さく振りながら声にした

 ニキ、ニキ、ニキ

 つぶやくと

 キヨ、キヨ、キヨ

 歌うように返ってくる

 Nikki, Nikki, Nikki

 Kiyo, Kiyo, Kiyo

 そして美少女はまた僕を見つめ

 一拍の間を置いて

 キャッハ!

 今度は目が眩むほどの光彩を

 八方に解き放った

 二人でそんなふうにしていると、他の六、七〇人の有象無象連中を〝見下している〟かのような、自分たちだけが特別で聖らかな場所にいる聖らかな存在になったかのような、妙な感覚が湧いてきた気がするが、そんなことはどうでもいい。

 言っておくべきことは、〝女に騙されたくない〟という僕の警戒心が、その奇跡的な時間の中でも、まだ完全には消えていなかったことだ。

 わかるだろうか? それゆえに、虹色の話題を語り合いつつも、虹色の話題を語り合うばかりで、なにを言おうと、なにを訊ねようと、そのときその場で、本当に必要なものではなかったのだ。

 わかるだろうか? だから、別段の理由があったわけでもなく、ましてや気取ったセリフを吐こうとしたわけでもない。

 ただ僕は、慌てて言ったのだ。音楽が変わりそうな気配とともに、ニッキーが僕の膝の上で大きく身体をずらそうとしたとき、だから僕は、慌てて、ずっと頭の中にあった、膨らみつづけていたことを、なぜだかそれだけは意味を成しそうに感じていたことを、どうしても言いたかった思いを、どう言葉にすればいいかわからないまま、そのまま口から出そうとしたのだ。

 Your eyes…

 君の瞳は‥‥‥

 Your eyes are…

 君の瞳が‥‥‥

 シュシュを取って頭を軽く左右に振り、ポニーテールをほどいたニッキーが、肢体をひるがえしてソファ椅子の肘掛けアームをつかみ、覆いかぶさってくるような格好になっても、僕は怖れずにつづけた――、

 I just wanna...

 ただこのまま‥‥‥

 Keep looking into your eyes...

 ずっと君の瞳を見つめていたいよ‥‥‥

 前髪の隙間からじっと、容赦なく見下ろしてくる苛烈な瞳に立ち向かい、ついに僕は目をそらすことなく、じっと見つめ返し、曲と曲の狭間の静寂の中で、見つめ合い、最後まで言い終えた――、

 Your eyes are great

 君の瞳はなんて素敵なんだ

 するとニッキーは、ふいに、手入れしてあるけれどしっかりした太さのある眉に〝せつなさ〟のようなものを浮かべ、黒い瞳に〝憂い〟のような波紋を揺らめかせ、呟くような、はっきり伝える意思がないかのような小声になり、言った――、

 You've got the same eyes

 あなたも同じ目をしているわ

 それは直上から容赦なく僕の胸に突き刺さり、肉にめり込み、血流より速く身体じゅうに伝播した。

 それが、僕が〝恋に落ちた決定的な瞬間〟だった。たぶんそのとき、僕の心臓はラ行に無数の濁点を打ったような、異様な音を立てたに違いない。


 これ、はずせる?

 髪を持ち上げた白いうなじが言った

 背中の低い位置からはじまる

 小さな黒い鉤爪を摘まむ前に

 僕は露わな両肩の右のほうにある

 刻印文字に、人差し指をそっと置き

 脊椎のくぼみに向かって

 ゆっくりと水平に這わせた

 ‥‥‥触っても‥‥‥いい?

 白い背中はゆっくりと波打って

 ‥‥‥YES‥‥‥と応じ

 黒い布きれを床に落とした

 そして新しくなった楽曲リズムに乗って

 僕だけのために

 裸のニッキーが踊りはじめた

 めくるめく――そんな言葉しか思いつかない‥‥‥

 めくるめく時間

 まるで極彩色の夢に揺蕩たゆたうがごとき

 濃密な時の流れの中で

 僕はひとりの少女にまつわる多くの真実を知った

 Thump-thump トクントクン

 Thump-thump トクントクン

 I can hear your heart beating...

 Thump-thump-thump-thump トクントクントクントクン

 白くやわらかな膨らみの深奥にある

 天使たちのはしゃぎ声のような

 早鐘の鼓動までをも‥‥‥


「ねっ? 簡単だったでしょう?」

 音楽が変わると、ニッキーは嘘のように動きを止め、すっと身体を離して立ち上がり、僕を見下ろしてそう言った。

「し、心臓が‥‥‥」

 僕は咄嗟とっさに目を閉じ、胸を押さえておどけてみせる。

「キャッハ!」

 目を開けば、世界一素敵な笑顔がそこにあるに違いなかった。

「クスクス、クスクス」

 目を開けば、ニッキーの笑顔がそこにあるに違いなかった。

「もう一度‥‥‥」

 そう喉元まで出かかっていながら、言えないでいた。

「Once again?」

 そう耳元に囁かれたなら、僕は即座に、壊れた機械人形のように、首を縦に振りつづけたことだろう。

 うふふ‥‥‥

 甘い吐息が僕の鼻先に触れた

 それはもう

 いつどこで嗅いだのか思い出せない

 遠い遠い、真っ白い

 記憶の痕跡のようだった

 ‥‥‥ニッキー?

 









 目を開けると、ドレス姿に戻ったニッキーが、それでもまだポニーテールになっていないニッキーが、また新しい組み合わせのニッキーが、鼻が触れ合いそうなほど間近で、僕の顔を覗き込んでいた。

「うふふ、うふふ、うふふ」

 ニッキーはひとしきり僕を見つめ尽くし、そして――、

「Come on!」

 どこまでも明るく、屈託なく、無邪気に、底抜けな嬉しさをさらけ出して――、

「カモン! キヨ!」

 動きたがらない僕の右腕を掴み、両足を踏ん張った大仰な仕草で椅子から引っ張り上げ、そしてそのまま、ふらふらと立ち上がった僕の二の腕を胸に深く抱き込み、ちょうど少女が父親にまとわりつくような格好を作って、言った――、

「Let's go! I'll get you back to your friend!
 さぁ! 行きましょ! お友達のところに返してあげる!」

 僕が突然の胸苦しさに襲われたのは、二人で観覧席界隈まで戻った後、腕を解き、少女が消えて行った方向を何度も見やっているときだった。

 ビールの残りをグイと飲み干してみても、どうにもそれは消えてくれそうになかった。

 僕は立ち上がり、ずっと黙って見てくれていた、右隣の友に言った――、

「駄目だ‥‥‥駄目だよ、ケイちゃん‥‥‥行こう」

 そして、圭と僕は、その三時間ほど前に入ってきたときの道順を、ちょうど逆回し映像のように、今度は僕が先に立って、闇雲に駆け抜けたのだ。

* * *

第七景 煩悶の水辺、あるいは〝行くべきか、行かざるべきか〟


「天国の入口まで手を引いて連れてゆかれ、いきなり闇に突き落とされた死せる魂」

 それが、ニッキーが身体を離したときの僕の心境であって、

「雨のそぼ降るなか、人気のない空き地に置き去りにされた子犬」

 それが、ニッキーがカーテンの向こうに見えなくなったときの僕の心境だった。

 ‥‥‥などと‥‥‥死んだこともないのに、天国の存在など信じちゃいないのに、犬だったこともあるわけないのに、僕はとりとめもないことばかり口にしていた。

 そう、愚図で愚鈍な子供のように‥‥‥。

 湖畔の命題は、大きく二つに収束しつつあった。

「だから、あんなことは滅多にありませんって。考えてみてくださいよ。いつもあんなだったら、それこそ町じゅうの男たちが押しかけますって!」

 友の言が正しいのならば、つまりそれが〝職業プロオンナの強かな技〟では〝なかった〟とするならば、〝謎〟のひとつ目はこうなる。

 Question One―― かの娘は、いったいなにゆえに、この奇妙なアジア人に、かくもありえないほどの〝過剰サービス〟を提供したのか?

「だから、ああいう店はですね、客がオンナのラタイを、あくまでもビジュアルで楽しむところなんですよ! 触るのも駄目なんですから、キスなんてありえませんよ。僕がチップあげても、彼女キスしてくれませんでしたもん。キヨさんのこと気に入ってたんですよ!」

 執拗に〝娘の特別な好意説〟を繰り返す久保圭一郎は、それほどにいい奴なのだ。

 言外にわかるのだが、僕がいきなり店を出た理由を、〝彼女が他の客を相手するところを――ましてやラップダンスするところを――見たくなかった〟からだと思ってくれていた。

 それはたしかにそのまま当たっていて、同時に少し外れていた。男の胸の内はもっとずっと、ひどく激しく、混み入っていたのだ。

 根底にある〝チキンハート〟=〝根性なし〟は同じだったが、僕はニッキーが、彼女のステージの最後の締めのダンスシークエンスの最中、グラス片手に紙幣を頭の上でピラピラさせながらステージ縁にやってきて、僕のほうをチラチラ指差しながら――、

「いまの東洋人にしたヤツをいっちょ俺にもやってくれよう!」

 的に言い寄った白人太鼓腹オヤジに、ダンスの流れを滞らせて〝困り眉〟になりながら、「I can't!」と叫んで(いるように見えたんだ、まちがいなく)撥ねつけたのを見てしまったとき、さらにその――、

「見ろよ! おっさんがすげなくされちまったぞ!」

 の光景が、店内の群衆を焚き付け、怒涛の哄笑とともに、一部の〝反感〟までをも買ったのを見てしまったとき――、

〈‥‥‥俺がここにいると彼女を困らせる〉

 と感じ、心苦しくなったからであって、それはつまり、率直に言い換えてしまうなら、圭の言うままの〝彼女の僕に対する特別な好意〟を信じてしまいそうになってしまいそうなまさにその情景であったからであって、これはもう信じざるを得ないようになってしまうしかないところまで追い込まれてしまいそうになるしかなかったからであって‥‥‥あ? う~む‥‥‥そしてそんな〝自惚れ〟だか〝おこがましさ〟だかとも苦闘せねばならず‥‥‥星空に溜息を吐きかけつづけていたのだ、おそらく‥‥‥たぶん。

 ともあれ、〝なぜ〟は解けずとも、それが焚火を前にしての二人男の次なる命題につながっていった。宗教的だ。

 Question Two―― 汝、裸の踊り子を信じきれりや?

「あの子はね、いい子ですよ。他の女たちの目を見てわかったでしょう? ほとんどがカネのことしか考えてないヴァンパイアだったでしょう? こっちの目をちゃんと見もしないで踊っていたでしょう?」

 説得は静かにつづく――、

「でもあの子は、踊りの最中にときどきキヨさんをじっと見てましたよ。最初横に座ったときから違ってましたもん」

 あらたまって仔細に訊ねたことはなかったが、裕福な家に生まれたこの友は、たしか父親を知らずに育ったのではなかったか。そして彼の母親には、いつも複数の恋人たちがいたのではなかったか。

 窓辺で母に寄り添い、〝新しい男〟が迎えに来るのを――、

「一緒にはしゃぎながら待っていたこともありますよ。まだかなぁ、まだかなぁ――って」

 と漏らしたこともあった。

 それゆえこの男の心の奥底には――、

 a) 女性を憎み、さげすまんとする人格

 と――、

 b) 慕い、崇めんとする人格

 が共存し、せめぎ合っているように、僕には感ぜられていた。危険な顔をときおり垣間見せはしても、心の中ではしかし、〝人を信じたい〟という無垢な情をもってして、それ以外のすべての悪辣な誘惑を絶対的に跳ね除けようとしているのだとも感じていた。

 だからこのときも、砂漠の星空の下で、はからずも――、

 a) 職業に貴賤はないこと

 ならびに――、

 b) 人間の多様性こそ社会に必須であること

 を熱く語ってしまっている友に、赤い熾火おきびをセイジ小枝で転がしながら、僕はとてもよい心持ちで耳を傾けていた。

「普通程度のレベルの女の子にはですね、あれはできないことなんですよ。案外昼間はジョギングとかスポーツジムとか通って、ちゃんと身体鍛えてますよ。それに意外とただの大学生なんかもいるんですよね。ただあれが、一番得意なことなんですよ。売り子とか事務とか、普通のことはできないんですよ」

 それが真実ならば、〝ストリップダンサーは信ずるに値する人間か〟などという設問は、それ自体が傲慢かつ卑怯な逃げ口上なだけであって、本質的に問われているのは――、

「おまえは〝あの子〟を信じるのか? 信じないのか? どっちなんだ?」

 でしかないことになる。

 そして、そんなふうに自身の内奥と直面するならば、また別の問いを鼻先に突きつけられるのだ。

 Question Three―― 汝、裸身なる踊り子を愛せりや?

「‥‥‥ヌードダンサーと本気で恋に落ちる勇気が‥‥‥俺にあるのか?」

 を、あれこれ考えあぐねていたわけであって‥‥‥これを〝煩悶〟と言い、〝苦悩〟と言わずして、なんと言う?

 やがて、星空の下、すべてはたった一個の、古典的な大命題に行き着く。

 TO BE, OR NOT TO BE. THAT IS THE QUESTION.

 行くべきか行かざるべきか、それだけが問題だったのだ。

 人生には、そんな岐路がいくつもあるように思う。

 が、その夜の僕は――、

「まったく! なんでなの!」

 星空を仰ぎ、喘ぎ声を漏らしつづけるだけだった。

「なんでさ! なんであんな素敵な女の子が! あんなところで踊ってたりするのよ! 裸で! その辺の道端でもなんでもいいから、もっと普通に会わせてよ!」

 圭は、再び燃えはじめた炎を両目に宿しながら――、

「あの子がダンサーだったからこそですよ! キヨさん!」

 勢いに乗って〝恋愛運命論〟を持ち出した。

「あの子があそこで踊っていたからこそ! でしょう? でなきゃこの出会いはありませんでしたよ? ああいう場所だったからこそ、ほんの一時間やそこらで、こんなに深い思いを残せたわけでしょう?」

 愚者がはたと手を打ったのはそこだった。

「‥‥‥待てよ‥‥‥そうか」

 安物ウォッカはとうに空になっていた。

「もしこれが運命なのならばだよ? ほっといてもこのままじゃ終わらないよ!」

「行きますか?」

「むむっ!」

「それでこそキヨさんですよ!」

「むむむっ!」

「いまから? すぐに?」

「むむむむむーっ!」

 つづく酔っ払いたちの笑い声は、広大な黒い湖面に小さなさざ波くらいは立たさせたかもしれない。

 ニッキーのことを思いながら、いつしか僕は、夜空に〝瑞雲〟を見上げていた。これを実際に見たことがある人は、まずいなかろうと思う。

 その数週間前、働いていたデザインスタジオの入った大きなビルから、現像所ラボへ向かうために外に飛び出したとき、ふと見上げた空にポッカリと、その小さなアーモンド形の雲はあった。

 クライアント立ち会いの写真撮影が進行していて、急いで取って返して来なければならなかったのに、僕はボスの車であるシルバーボルボの四角いドアを開けたまま、しばらく見入ってしまった。

 夕暮れまでまだ間のある時間帯。場所はサンフランシスコの〝シティ〟と呼ばれる中心街区から南西に外れた、観光客の立ち入る用のない〝ミッション〟地区インダストリアルエリア。

 そのとき、とうに見慣れたCalifornia Blueを背景に、その不思議なアーモンド形の虹色ストライプ雲は、たった一個で、僕に――、

「‥‥‥大丈夫なんだな‥‥‥なにもかも」

 と呟かせてくれた。

 不思議はもうひとつ。その翌日、それが万葉集にも書かれている自然現象であることを、たまたま開いた辞書に見つけたのだ。そう、そのすぐ翌日、なにか他の調べものをしようとバッと開いたそのページに、最初に目を置いた箇所に、〝たまたま〟あったのだよ、「瑞雲ずいうん」という雅で美しい語が。まるでカール・グスタフ・ユングの言う〝シンクロニシティ〟――〝人を導く偶然の一致〟のように。

 だから、砂漠の夜、湖畔で友と語らっていて、語り尽くした果てに、僕はもう一度この雲を見ていたのだ。

 暗い空にぽっかりと浮かんでいて、世界をあっけらかんと見下ろしている、アーモンド形の虹色雲を。

 はっきりとこの目で。間違いなく。

* * *

第八景 天国への最終出口、あるいは手のひらに舞う雪


 冷たく澄みわたる朝の空気の中、僕と圭は長い時間をかけてコーヒーをすすった。

 眼前に広がる、その朝は鈍色にびいろの湖面と、特徴的な形の島と、遠く地平線を形作る山々を眺めながら、各々三杯ずつ飲み干してから、腰を起こし、テントをたたんで車に積み込んだ。

 荒野の一本道を小一時間南下すると、北米大陸を真横に突っ切る州間高速道路八〇号線アイ・エイティにぶつかる。そこからハンドルを西へ切り四〇分ほど下ると、眼下の丘と丘の向こうに大きな街が見えてくる。

 その街の〝上空〟を通り抜ける形のフリーウェイには出口イグジットが五つあり、東側からは二つ目と三つ目が中心街区――カジノホテルの居並ぶ繁華街になっていた。

 ひとつ目の出口を通り過ぎたとき――、

「どうします?」

 運転席から声が聞こえた。そのさらりとした言いようが、ようやく、その朝初めて、僕に口を開かせてくれた。

「うん‥‥‥ちょっと寄ろうか」

 明るい陽射しの下のギャンブルタウンは、閑散として、田舎臭く、うらぶれて見えた。

 真っ直ぐに向かった〝その店〟は、街の最外周を巡る大通り沿いにあった。

 僕は車を降り、遠くからカメラを構えた。

 一回、二回、三回――露出を変えてシャッターを切った。

 ファインダーの中には――、

〈まるで役所か‥‥‥刑務所‥‥‥〉

 のような、古く厳めしい石造りの建物があった。

 道の外側は壁もフェンスもなにもない大陸横断鉄道トランスコンチネンタルレイルロードの貨物引き込み線になっていて、そこで街は終わり、ゆえに僕が背後を振り向けば、見晴らしが良く、良いどころではなく良く、広大無辺な高地砂漠の最果ての地平線までを思う存分遠望することができた。

 その不毛な世界にもカメラを向けていると、シャッター音を待たずに、圭が言った。

「どうです? 近くのダイナーで朝メシ食べません?」

 さっきから心を見透かされているのは、返って気持ちいいくらいだ。

「うん」

 素直に、照れ笑いとともに、僕は答える。

「車さ、ここに駐めて行こうよ。ちょっと歩いてみたいしさ」

 一枚、二枚、三枚――二五セントクォーター硬貨をギリギリまで押し込んだ僕に、傷だらけで銀色の、笑い顔のようなパーキングメーターは、九〇分のアディッショナルタイムをくれた。

 一枚分、闇雲に歩き回った。

 交差点をいくつも渡り、路地を折れ、界隈をぐるりとひと巡りしてみた。が、道の向こうからいきなり声をかけられることも、ふいにカジノホテルの入口から人影が走り出てくることも、車が横で急ブレーキをかけることもなかった。

 ところが、一軒のダイナーを、ガラス壁に額を貼り付けるようにして覗き込んでみると、一番奥まったところのテーブルに、観葉植物の陰に、黒髪のポニーテールが見え隠れしていて――などということもなかった。

 適当に入った店で注文した『ジャックポット・オムレツ』は、名前は〝大当たり〟のわりには、見てくれも味もごく普通だった。そう――、

 なにもかもが

 コーヒーの味も
 
 マグカップの形も

 シュガー類の種類も並べ方も

 白エナメルのテーブルも

 壁の額絵も

 ウエイトレスたちのユニフォームも

 色も、デザインも

 彼女たちの立ち姿も動きも

 笑顔も、声も

 なにもかもが

 すでに見知っている

 ありきたりな光景だった

「‥‥‥こんなもんだよなぁ」

 溜息まじりの僕の呟きを、友は即座に理解した。

「まぁ、そうですよ」

 圭には、ときおり斜に構えて世の中を眺めることを喜ぶ傾向がある。

「びっくりするほど綺麗なものなんて、普通は滅多に見られませんよ。ドキドキするようなことなんて、なかなかありませんって」

「だよなぁ‥‥‥」

「どうします?」

「‥‥‥どうって?」

「なんだったら、これからあの店に行って、俺が――」

 僕はコンコンとマグカップの縁をスプーンで叩いた。

「いや、いいよ。もうタイム・イズ・アップってことで」

 笑い顔のパーキングメーターは、とうに〝 Expired(時間切れ)〟の赤い舌を出しているはずだった。

「そうですか?」

「うん」

「なんか、もったいない気がしますけどね」

「いや‥‥‥」

 僕は重いマグカップを取り上げ、唇に運び、飲まずに、白テーブルの茶色い輪の上に慎重に着地させた。

「思ったんだけどさ‥‥‥あの子、どこかしら前の奥さんに似てたんだよね」

「マリアさんに、ですか?」

「うん」

「見た感じもタイプもずいぶん違いますけどね」

「うん、だけど、目のなかの光なんかがさ、きっと‥‥‥」

「そうかなぁ‥‥‥そんなことは関係なくて、いい出会いだったのかもしれないじゃないですか?」

「うん‥‥‥でも、なかなか勇気出ないよね。俺はまた、あんな子と惹かれ合ってしまうのか? またもう一度、普通以上にエネルギーを持った、エキセントリックな女の子を相手にしたいのか――って」

「ああ、マリアさん‥‥‥金髪のすごいショートで、絵も彫刻も、個性的でアクが強くて‥‥‥大変そうな人でしたもんね」

「まぁ、ね」

「どちらかと言うと、悪女タイプ?」

 僕は少し声にして笑う。

「うん、日本人の女の人たちにそう言われたよ。別れた後にね。話しづらかった――とかさ。好きだったって言ってくれたのは、ひとりだけだったかな」

「一年近く、行って、住んでたんですよね? ブダペスト、なかなか大変だったみたいですね」

「‥‥‥まあね、いい経験にはなったけどさ、あんな遠くまで行っちゃうと、ね。なんて言うか‥‥‥〝自分じゃ足りない〟って思うようなことばかりでさ。あっちはヨーロピアンで、曲がりなりにもね、こっちはベトナム人まで含めた〝アジア人〟なんだからね」

「わかりますよ。僕、南カリフォルニアで高校生やりましたから。ティーンズの人種差別は本当にえげつないですよ」

「ま、差別ってだけじゃないんだけどねぇ‥‥‥それにさ、忘れてたけど、この街だったんだよ。俺たち、結婚式挙げたの」

「え? ああ、そうでした?」

「うん。さっき歩いてて思い出したよ。それがさ、馬鹿みたいに派手なブルーグリーンの、彼女の選んだ色のコンバーチブル借りて来てさ、マスタングだよ、白いトップ下ろしてさ、ハンガリー人の女の子とゲイのアメリカ人のカップルと一緒に、ここまで大騒ぎでドライブして来てさ。奴らはグリーンカードのための偽装結婚だったんだけどね‥‥‥だから‥‥‥」

 言うなり、宙を見つめて固まってしまった僕に、圭は遠慮なく突っ込んできた。そんなところが日本人らしくなくて、快い。

「だから?」

「うん、狐愁って、わかる?」

「なんですか? コシュー?」

「ハハ、ケイちゃんが言うと英語みたく聞こえるね」

「日本語ですか?」

「うん。男はみんな寂しがり屋だ――ってな意味。巣穴を追い出された子狐みたいに、ってこと」

「文学的ですね」

「離婚なんかするとさ、いろいろ読むようになるからね。聖書も読んだし、哲学もするし。ソクラテスもそんなことを言ってるんだ。結婚しろ、良妻をめとれば幸せになれる、悪妻なら哲学者になれる――なんてさ。笑っちゃうだろ?」

「でも‥‥‥だから?」

「いや、だからさ、いろいろ思い返してみると、ニッキーが俺の目の中に見つけたものって、きっとそれだったんだよ。〝寂しさ〟を見透かされたんだよ」

「‥‥‥‥‥‥」

「彼女の目を褒めたんだ。すると言ったよ、あの子、You've got the same eyesってさ、あなたも私と同じ目をしているわ――って」

「そんなこと言われたんですか?」

「うん」

「ラップダンスのとき?」

「うん」

「格好いいじゃないですか!」

「なあ? すっげえ格好いいだろ? てか、殺し文句だろ?」

 ハハハと笑ったつもりが、喉につかえて出てこなかった。

「彼女ね、最初のキスは目にしてくれたんだよ。右の、瞼にね。普通なかなかしないでしょ? 目にキスなんて?」

「それはステージで?」

「うん」

「踊りと踊りの合間の、あのとき?」

「うん」

「うまく髪で隠しましたね、あの子」

「うん。いや、まあ、とにかくさ、俺の傷を舐めてくれたんだよ、あの子、きっと」

「‥‥‥‥‥‥」

 圭が押し黙ることは滅多にない。あるとすれば納得していないときだ。

「う~ん、どうですかねぇ‥‥‥俺はもっとこう‥‥‥ダンサーの女の子たちのこといろいろ知ってますけど、なんて言うか、彼女のほうにも、もっとなにかあるように感じましたけどね」

「うん、そんなこともまぁ、あるかもしれない。けどさ、素晴らしいショーを観させてもらった。ケイちゃんのお陰。普通ではありえない、滅多にないほどドラマチックな体験だったし、今朝もまた、砂漠で、湖で、知らない街で、こうしてロマンチックな時間を過ごせた。それでいいということにして、もう行こうぜ。雪になるかもしれないよ」

「‥‥‥‥‥‥」

 カリフォルニア州とネバダ州の州境ボーダーには、巨大な壁――シエラネバダ山脈が立ちはだかっている。スペイン語のその名〝雪に覆われた山脈〟そのままに、麓の平原はうららかな初夏のような一日にも、境界線をまたごうとする者には、白い試練が課されることがある。

 迂回路などどこにもなく、不安を希望で覆い隠しながらただ突き進むしかなく、それはおそらく、西部開拓時代の昔から少しも変わっていない。

「もう行こうぜ!」

 と、いったんは〝思い残すことはなにもない〟ような台詞を吐いたくせに、車がフリーウェイ登り口ランプにさしかかると、僕は急に落ち着かなくなり、背後を振り返った。

 バックウインドウの向こうで、パームツリーの形をした巨大なネオン塔がゆらゆらと手招きしていた。

 なにかとんでもない忘れ物をしてきた気分なのだ。息苦しさまで感じはじめ、ついにさらなる延長戦を申し出た。

「ごめん、ケイちゃん。最後のイグジットで下りてもらってもいい?」

「いいですねぇ」

 圭は笑顔で即答した。

「行きましょう。好きですよそういうの。Last exit to heavenてわけですね」

「いや、格好よすぎだって‥‥‥でも、ちょっと見てみようよ。ここに来ると、いつもカジノあたりでしか下りたことないから、そうじゃないところもさ、見てみようよ」

 最後の出口を下りたその先にあったのは、ごく普通の住宅街だった。

 ごく普通の街路樹のある道に、ごく普通の家々が建ち並び、それぞれにごく普通のフロントヤードがあり、ごく普通のコンパクトカーが乗り入れてあり、芝生にオモチャや遊具が散乱していて、色とりどりの明るい花が咲いていて――、

「案外‥‥‥普通の家が多いですね」

 圭は、僕の頭の中をそのまま言った。

「どんなだろうね‥‥‥?」

 だが、さすがの彼も、その先までは読めていなかったらしい。

「どんなって? なにがです?」

「うん‥‥‥この街に生まれてたとしたら――さ。どんな人生だろうね?」

「アメリカの、ネバダ州の、砂漠の、カジノの街に――ですか?」

「うん」

「あの子みたいに?」

「あの子みたいに」

 その空想をひどく気に入ったらしく、圭はしばらくノロノロ運転をつづけながら、フロントウインドウから家々を覗き込み、楽しげに観察していた。

「で、キヨさんは? どう思うんです?」

 真面目に受け止めてくれ、しかも無理に自分の意見を捏造しようとしない友に、僕は安心して胸の内を明かす。

「うん。地道だね。地道だよ。ヨーロッパでもあちこち行って、そう思ったし」

「あ、わかりますよ。どこに住んでいても、どんな仕事していようと、生活は、結局は地味で地道なものですよ」

「うん。そんな中でさ、あの子、ニッキーはさ、力いっぱい、自分らしく生きようとしていたんだよね。主人公プロタゴニストになってやろうと、自分を、自由を、追いかけているんだよね。裸になって‥‥‥」

「なるほど‥‥‥」

「うん、だからさ‥‥‥ハハハ」

 僕はバンダナを取り、両手で丸刈り頭を掻きむしった。

「たとえ一瞬でもさ! あんな女の子の相手に選ばれたなんてさ、あんなに、若くて、元気で、極上の、矢鱈めったら格好いい美少女に、脇役だけどさ、ほんの一瞬だけどさ、選んでもらえたなんて、俺、光栄だよ!」

「なるほど」

「そういうことにして、もう行こうか?」

「満足しました?」

「うん、満足した」

 住宅街の一番高台のその場所から、フリーウェイに戻るまでのすべての家々の窓に、僕はニッキーの、幼子のころ、少女のころ、思春期の頃――いろんな年代の彼女の笑顔を見た。

 砂漠の徒花あだばな――ギャンブルタウン・リノから、陽光降り注ぐ太平洋をひたすら目指す遠い道のりは、いつしか幻想的な〝雪のトンネル〟に変わった。

 真正面から容赦なく照りつけているはずの太陽が、分厚い粉雪のドレープカーテンに包まれ、巨大で朧な光球に変わったその光景は、まったくもって非現実的シュールリアルで、まるで異次元に繋がるトンネルに入ったかのようだった。

「なんだかすごいね‥‥‥タイムトラベルしてるみたいだね‥‥‥」

「フフフ、行き先は、過去か、それとも未来か――ですか?」

「‥‥‥‥‥‥」

 気の利いた返答が見つからず、ウインドウを小さく開け、フロントガラスを駆け抜けてゆく白い雪片の群れに手をかざしていると、無数の中のひと粒が、ふうわりと奇妙に舞い、僕の手のひらの上で踊り、見ている間に真ん中あたりに吸い付いた。

「‥‥‥ふふふ」

 おかしさから握りしめた拳の中に、微かな湿り気を感じたその刹那、ふいにせつなく、ふいに哀しかった。

 冷たくなった右の手のひらを、外の冷気を知らない左の手のひらに摺り合わせ、祈りのような格好を作ると――、

「ケイちゃん‥‥‥」

 言葉が勝手に口をついて出た。

「やっぱり俺、もう一回行かなきゃ‥‥‥行って、俺にもタトゥーがあることもあの子に言って、あの子のタトゥーの意味、ちゃんと聞いてあげなきゃ」

「〝愛〟の意味を教えてもらいに――ですか?」

「うん‥‥‥〝愛〟の意味を教えてもらいに」

「それもいいことかもしれませんね‥‥‥」

 それを最後に、圭と僕は黙り込み、〝帰り道〟をただひた走った。

 実際には何カ月かかったのだろう? クリスマスを過ぎ、僕は何度も旅にさすらい――一九九九年の初夏の訪れを待たねばならなかった。裸の美少女ニッキーに、もう一度出会うまで。

〈第一部・幕〉

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MAZKIYO

< 第二部 予告 >

第二部 予告 通過儀礼イニシエイション 
Act-II: INITIATION


 あの日から、ほぼ週一ペースで山越えドライブに乗り出し、何度も〝壁〟を越えていながら、僕は毎回決まってイグジットサインを五つとも、バックミラーの中に置き去りにしていた。それは圭に言わせれば〝女々しい〟ことだったが、違うちがう、そうじゃないんだ。

第一景 喉を掻き切れ!

そいつが針にかかったのは

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