『裸のニッキー』 長編恋愛詩(2/3)
第三景 「なに話してるの?」と彼女は言い、「楽しみにしてる‥‥‥」と僕は言った
彼は言った。
人は、視野に入った人物が敵なのか味方なのか、ひと目で見分ける能力を持つのだと。その際、三〇あまりのチェック項目をコンマ数秒で判断するのだと。
それは大脳の旧皮質と呼ばれる、発生学的に〝古い〟、つまり〝本能的〟な領域で行われるのであって‥‥‥要するに、人の〝好き嫌い〟を分かつのは〝瞬時〟かつ〝無意識〟だということだ。
このことから、恋愛において〝なぜ〟は意味を持たないことがわかる。
だが僕には、理由は知れずとも、恋に落ちたのが〝いつ、どの瞬間〟だったのか、明確な記憶がある。
それは劇的で、衝撃的だったのだ。
小柄なタイ娘の小作りな半裸ダンスショーは、まだ中盤に差しかかったところだった。
助け舟を出してくれたのは、もちろん諸事情に詳しい友人だ。
「ほら、キヨさん。話しなきゃ」
「え? なにがさ?」
「横ですよ。狙われてますよ」
「え‥‥‥? なに? これもヴァンパイアなわけ?」
声を潜めてはいない。日本語なのだから、わかるわけない。
「そうですよ。話しなきゃ」
「なに? ゲリラ戦もありなの? 客を個別攻撃してくることもあるわけ?」
「当然ですよ。言ってなかったですか? でも、ほら‥‥‥」
急に〝ひそひそ声〟になるのは、男とはそういうものらしい。
「すごく可愛いオンナですよ」
「え‥‥‥?」
その時、ようやくにして、僕はその子を〝見る〟理由を獲得した。
そして、横目で左側をチラ見した僕は――、
〈‥‥‥‥‥‥〉
そのまま固まった。
はからずも〝見つめ合う〟ことになってしまったからだ。
つまり、すぐ間近で、それはこちらを見ていたのだ。
〈‥‥‥‥‥‥〉
見ている‥‥‥クルリとした黒い瞳が、目尻のちょっと上がったアーモンドアイが――、
〈‥‥‥‥‥‥〉
見ている‥‥‥薄くスマートな唇を大きな三日月型の舟にして――、
〈‥‥‥‥‥‥〉
見ている‥‥‥どこまでも明るい笑顔が――、
〈‥‥‥‥‥‥〉
見ている‥‥‥見ている‥‥‥まだ見ている‥‥‥。
〈うわっ!〉
慌てて目を引き剝がした僕は、逆サイドに吹っ飛ぶあまり、友の頬に鼻をぶつけた。
「うわっ! うわっ! うわっ!」
素っ頓狂な声を出した。
「か、可愛いいっ! この人は客だよ、ケイちゃん! 普通の女の子だよ! いやいやいや、だって――」
僕は背筋を正して正面を向き、酸素のまったく入ってこない深呼吸を二回して、もう一度左側をチラ見した。
「ほら‥‥‥ね‥‥‥ほら‥‥‥」
失礼にならない程度にチラリチラリと盗み見しながら、その存在が〝ストリップダンサー〟などではありない理由を、友に小声で並べ立てた。
うん‥‥‥ほら‥‥‥ね‥‥‥
膝にハンドバッグ持ってる‥‥‥し‥‥‥
高級そうだ‥‥‥し‥‥‥
ちゃんと‥‥‥ほら‥‥‥
よそ行きのおめかし‥‥‥して‥‥‥て‥‥‥
黒の‥‥‥うん‥‥‥ロングドレスで‥‥‥‥
品が良さそう‥‥‥で‥‥‥
うん‥‥‥うん‥‥‥うん‥‥‥
彼女の装いは、〝ベアトップ〟はたまた〝ベアショルダー〟と呼ばれるかもしれない、胸元から上をすべて露出したワンピースドレスで、肩紐もなく自由になった首周りから両肩がとてもキュートで、でもロングドレスでフォーマルで、清楚で品がよくて、キラキラした黒のサテン地で――もうとにかく、矢鱈めったら魅力的だった。
「うん! 違うね!」
右に向き直り、僕はきっぱりと言い切った。
「まったく違う! ケイちゃんは間違ってる! この人は客だよ。ダンサーじゃないよ! 普通の客! きっとあれだよ、ハイソなパーティーとかから流れてきたんじゃない? スタイル良さそうだから、きっと本気のダンスが好きでさ、それでこんなの観に来てるとか? じゃない?」
だが、専門家は認めない。
「そんなことないですって。ダンサーのオンナですってば。ほら、行かなきゃ」
「だからぁ! この女の子は違うって! こんなのがそんなのなわけないって! ダンサーなんて雰囲気じゃないって! ケイちゃんそんなこと言うの失礼だって!」
「ダンサーですってば。ダンサーなんですよ。そうやってラップダンスの客を釣ろうとしてるんですよ」
〝ラップダンス〟というのは、そういう店のサービスでありメニューであって、と言ってもフードやドリンクのことではなく、〝ラップトップ〟というコンピューターがあるように‥‥‥いや、説明は少し待とう。
「いいよ、ラップダンスなんて。やらないよ。個室ならまだしも、公衆の面前であんな露骨で変態な恋愛ごっこ。とにかくこの人は違うって! 髪の毛も普通に――いや、普通よりぜんぜん格好いいポニーテールでさ、きちんと後ろにまとめてて、それがえらく似合ってるっぽいし、メイクも、表情もさ、えらく品がよさそうだし、それに‥‥‥それにさ‥‥‥」
もう一度だけのつもりで、僕は横目で左側を盗み見ようとして――、
〈‥‥‥‥‥‥〉
また固まった。
〈‥‥‥‥‥‥〉
可憐な黒い瞳とまたしても鉢合わせしてしまったのだ。
〈‥‥‥‥‥‥〉
堀りが深いのに、深すぎない、スッキリとバランスよく配置された目鼻立ちが、僕の真横で、すぐ間近で、この世のどこにもありえないほどの明るい笑顔を作っていた。
一秒‥‥‥
二秒‥‥‥
三秒‥‥‥
四秒‥‥‥
「うもーうっ!」
右に首をぶん回し――、
「ほらあ!」
友に向かってムキにならざるをえないほどに、それは可憐だった。
「ほらあ! ぜんぜん違うじゃないか! この子は! いままでステージに上がったオンナたちとは! ぜんっぜん!」
「いえいえ、ダンサーですってば。キヨさんのこと気に入ってるんですよ。カーテンの奥から観察してたんですよ」
「‥‥‥え?」
「ほら、向こうのカーテンの中からですよ」
「あ? う?」
友が目で示した遠方には、天井まである分厚いドレープカーテンが、空間を赤く劇的に染めていた。
「‥‥‥‥‥‥」
「ステージ裏につながっているんですよ。あそこから店内をこっそり見ていて、いまいる六〇人か七〇かの男たちの中から、彼女はキヨさんを選んだんですよ。僕のそばに来てたら速攻でラップダンス行きますよ、その子だったら。可愛いですもん」
「あ‥‥‥う‥‥‥?」
「行っちゃってもいいですか?」
「いや、やめて、いや、待って、そうじゃなくって、だってこの子は――」
特にあなたが女性なら、あなたにもちょっと考えてみてほしいのだが、たとえばこんな〝延々とつづく男たちの押し問答〟を前に、あなたならどう対処するだろう?
1. クスクス笑って見ているだけ?
2. 次になにが起こるか待っている?
3. 思い切って声をかけてみる?(だとしたらなんと言う?)
4. それとも?
一人ひとりの人間には、〝質〟とか〝器〟とか呼ぶべきものがあるのだと思う。人生の道行きとは〝エトランゼ*との邂逅の連続〟と言ってしまえるようなものであって、不意に、未知で不測な〝他人〟に出くわしたとき、なにを持っているか、どんな技を繰り出せるか――そこに〝普通の人々〟と〝普通ではない人々〟を分かつ境界線があるのだと思う。
〈※エトランゼ:仏語Étranger――と言うと雰囲気たっぷりだが、英語ではStranger、つまり〝他人〟だ〉
いつまでも煮え切らないモンゴロイド約二名を尻目に、その黒ロングドレス娘は、UnexpectedでOriginal――想像を超えた独自の動きに出た。
(名前を聞いたのはもっとずっと後になってからだが、もうニッキーのことはニッキーと呼ぶことにする)
ニッキーは突然、ステージ上のタイ娘に〝号令〟を発し、悶着男らを黙らせた。
号令と呼ぶのも妙だが、彼女の口から突然発せられた言葉は、短く、太く、そして激しく――号令が一番近い。名前のようにも思えなかったから、彼女らの間のなんらかの〝符号〟だったのかもしれない、し、耳慣れない響きだったから、タイ語だったのかもしれない。
とにかく少女は、たった一声で、シーンを急転回させたのだ。
ハテナマークを浮かべた二つの首(僕と圭)は、一旦黒ドレス少女に向き、つづいてステージ上に向いた。タイ娘がフロアにごろりと寝転んだからだ。
ゆっくりと身を起こしたタイ娘がフロアを這いずりはじめると、今度は二つの首は、号令を送った少女のほうに向き戻った。
「‥‥‥‥‥‥?」
僕がポカンと口を開けて見ているのを知ってか知らずか、ニッキーはおもむろに膝の上の黒エナメルハンドバッグを開け、白く細い――繰り返す、白く細い指先でスッと一ドル紙幣を抜き出し、
「‥‥‥‥‥‥?」
周囲のことなどまったく意に介さない爽やか風情で、マジシャンのようにそれを目の高さに持ち上げ、丁寧に縦半分に折った。
「‥‥‥‥‥‥?」
それからハンドバッグを膝に抱え直し、揃えた両膝を前に進め、前傾姿勢を取った。
わかるだろうか? わかってもらえるだろうか? つまりその不思議少女は、椅子に腰掛けたまま前にいざり出て、顔をステージ上に突き出したのだ。
それがまたどうにも素敵なのだ。素敵すぎる。
バックレスの背筋を弓なりに伸ばしていて、背中が白くまぶしくて‥‥‥あ? 細長紙幣はどうした? 彼女の口にあるのだよ。前歯で軽く噛むようにして、スッと、顎より先に突き出しているのだよ。
「‥‥‥‥‥‥?」
それを見たタイ娘、四つん這いでにじり寄ってくる。ぎこちないながらも、猫を演じていると知れる。
小麦色猫はニッキーの口元に狙いを定め、歯を剥いて唸り、近づき、遠ざかり――を三度繰り返し、最後にバッ!と、牙で紙幣を掠め取った。
「‥‥‥‥‥‥!?」
だがしかし、僕の目がずっと見つめていたのは、ぎこちない猫の小麦色乳房ではなかった。
眉をスッと持ち上げ
目を薄く閉じた
爽やかなチンラインの
きりっとしたポニーテールの
涼しい笑顔の横顔だった
ストンと背もたれに戻ってきてこっちを見た爽やか笑顔とクルリン瞳から、僕は今度は目を逸らさなかった。思い切って声をかけるしかないじゃないか。
「What...」
が口を突いて出た。ヴァンパイアに騙されないよう用心しつつ、眉間に皺を寄せ、いくぶん声を尖らせて、言った――、
「What... was that? Can you do that?(いまのなに? あんなのありなの?)」
無粋で、意地悪で、加えて意味不明なモンゴロイドの問いかけに対し、跳ね返ってきたのは、まったく〝意外な代物〟だった。
「She's a good friend of mine!(あの子と仲良しなの!)」
衝撃的だったのはその〝音質〟だ。音質なのか? 生まれて初めて耳にした音の種類のような気がした。僕の心臓は一瞬役割りを放棄した。
それは高くて、ちょっとハスキーで
それでいて少しもハスキーすぎない
すばらしく歯切れの良い
明るい表情にぴったりの
魅力的としか言いようのない
〝声〟だった
「Uh...umm...(あの‥‥‥)」
僕は彼女の顔を見ようとして、できずに、俯向いて言った――、
「What…are you?(君は、なんなの?)」
ここでもWhoではなくWhatと言ったのだから、しどろもどろの二投目だったのだが、ニッキーは鋭く変化する速球――、
「I just got here! You guys are Japanese, aren't you? What are you talking about? (いま来たところなの! あなたたち日本人でしょ? なに話してるの?)」
を返してきて、男の肺をも機能停止に追い込んだ。くれぐれも、高くてちょっとハスキーな、魅力的な声だ。
「いや、なにって‥‥‥えっと‥‥‥」
どう答えりゃいい?
「Err...We were just talking... How beautiful they were. What else? (えっと、みんなキレイだなぁってさ。他にないでしょ?)」
まじまじと――なのだ。繰り返す、〝まじまじと〟なのだよ。
ニッキーは僕の顔を覗き込むようにして〝まじまじ〟と見つめ、椅子の上で弾けた。
「キャッハ! 嘘ばっかり!(Kya-ha! You are lying!)」
待て待て、なんだその「キャッハ!」は?
初めて聞いた種類だぞ?
なんだその「嘘ばっかり!」は?
まるで普通の友達との普通の会話じゃないか?
おいおいケイちゃん、どこがプロオンナなんだ?
ヴァンパイアなんだ?
いや、だからそもそも
その前の一拍の〝まじまじ〟の間に放射した
〝キラキラ光線〟はなんだったんだ?
珍しいものを見るようなクルクル目は?
待て! 待て待て! いったい全体!
なんなんだこの子は!
「私、ジャパニーズタトゥーあるわよ! ほら!」
いきなりすぎるう! 技が高度すぎるう! 目の前に透き通るような白い肩口を突き付けられ、俺はいったいどうすりゃいいのか! 背筋を弓なりに伸ばした座り方が! あああ! 美しすぎるう!
「Oh...yeah...(なるほど‥‥‥)How cool... errr...(カッコいいや‥‥‥えっと‥‥‥)」
小さな黒い漢字一文字をじっと凝視しながら、白い柔肌を鼻先にして――、
「それはちゃんとした日本語だね。アメリカのそういうタトゥーは、文字のの形がおかしかったりするんだけど、君のはちゃんとしてるよ。もちろん意味は知ってるよね?」
饒舌カンバセーションは僕ではない。
「It means Love, right?(〝愛〟って意味でしょう?)」
少女が自分の肩に頬を寄せて体を捻っているあいだに――、
「Yes... but, why... errr... ummm...(そう‥‥‥だけど‥‥‥あー、うー)」
どん詰まるのが僕だ。
「What's that?」
ハスキーな高い声に「ナニ?」と爽やかに訊き返され、〝どん詰まり男〟は、またしても目尻の少し上がった大きな黒い瞳とじっと見つめ合うことになってしまい――、
「‥‥‥‥‥‥」
なにも言えなくなり――、
「いや‥‥‥なっすぃんぐ‥‥‥」
俯向いてしまうのだ。
「キャッハ!」
それはもう〝祈り〟に近かっただろう。少し左を向くだけでいいのだから。
天よ、神よ、仏よ
どこのだれでもいい
少し左を向くだけの勇気を僕にください
他になにもいらないから
今この瞬間、ちっぽけな勇気だけ
僕にください
そうすれば〝輝き〟が手に入るのです
無邪気に笑っている大きな口
心惹きつけてやまないバーガンディの唇
視線をわずかに下に動かそうものなら
ベアトップの上端が
カップに支えられた白い胸の一部が
惜しげもなく、そう、惜しげもなく
白くたゆとう豊穣の玉のように
僕のすぐ左側にあって、そして、そして、そして――
〈ヤバイ‥‥‥こいつぁヤバイぞ‥‥‥いつの間にか普通の女の子との会話になっているじゃないか‥‥‥いや、普通どころの話じゃないぞ。普通よりも何倍も、何十倍も、いやいや何千倍も可愛い女の子だ‥‥‥目がヤバイ‥‥‥この子の目はヤバイぞ‥‥‥〉
「What's that?」
頭の中で考えていたつもりが、どうやら一部声に漏れてしまっていたらしい。屈託のない「ナニ?」と〝まじまじクルリン瞳〟にまたしても迫られ――、
「Um...errr...(いや、う~ん‥‥‥)」
なにやってる? 真剣に考え込んでどうする? まだ若いぞ? ずいぶんと年下じゃないか? 押されてばかりでどうする? 少しは気の利いたセリフを言えないのか!?
「Errr...y, you...(ああ~‥‥‥き、君は‥‥‥)」
「Hun?(ン?)」
「君も‥‥‥踊ったりなんか‥‥‥するのかなぁって‥‥‥」
馬鹿野郎! なんだそれは? なのに――、
「Of course!(もちろん!)」
なんて快活で小気味よいのか!? この清らかな生き物は!?
「I'm the last!(最後が私!)」
「アーユー‥‥‥リアリィ‥‥‥?」
「ン?」
「Are you...really... doing that?(あんなこと‥‥‥するの?)」
「That?(あんなことって?)」
「いや、踊りながら、あのう‥‥‥服‥‥‥脱いだりなんか‥‥‥」
不躾な、無粋な、加えてウィットのかけらもない愚鈍男の物言いに、返されてくるのは、やはり意外な角度からの超速球だ――、
「ステージに上がるのが好きなの! ダンスが大好き!」
あんぐり口開きのままどうにか受け止め、すぐに返球しようと必死なあまり、男はまた俯向くしかなかった。
「Well… then…(あのう‥‥‥えっと‥‥‥)」
「ン?」
だからそれは、僕の顔を覗き込む素敵な声。
「How many more… before…(あと‥‥‥何人?)」
「ん~っとね、まだまだ先よ。九人くらいかな」
「Well... then... errr...(そうか‥‥‥それじゃあ‥‥‥うー‥‥‥)」
「Huh?」
「Am... looking... forward... to it...(楽しみに‥‥‥してる‥‥‥)」
ニッキーは、またしても珍しい動物を見るような顔付きになり、クルリン瞳で僕をまじまじと見つめ――、
「キャッハ!」
と、元気よく弾けた。
僕の祈りは砂漠の湖の女神に届いていたらしい。その後の数ステージ、僕は彼女と楽しく語り合った。
踊っているダンサーたちの容姿がどうとか、ファッションの趣味がどうとか、巨大な胸が本物だとかそうじゃないとか、そういうところからはじまり、〝淀み〟や〝たるみ〟や〝ぎこちなさ〟などまったく知らないかのように、自然に話題は四方八方に広がり、いろいろなことを語り合った。
映画の知識が豊富で、美術が好きなニッキーと、初対面の白人女性相手にしては、いやだから、たとえ同性でも同国人であってもそんなことはなかなかないのだが、僕は思いかけず、思う存分、いろんな話をすることができた。
そういう種類の店のそういう種類の女は、プロで、強かで、雌狐で、だから圭に言わせれば〝ヴァンパイア〟で、言葉を交わしたところで本当のことなんて絶対に言わないものだと思っていたのに、だからずっと訊きたくても名前も訊けずにいたのに、ニッキーがスクと立ち上がって、ニッキーらしい明るい笑顔で――、
「I'm gonna go change!(着替えてくる!)」
と、高いハスキーな声で言ったとき、僕はその少女が裸で踊るなどとはどうしても信じられなくなってしまっていて、だからなんだかとても複雑な思いで、黙って小さく頷いただけで、遠ざかっていく素敵なポニーテールの小さな頭と、黒のロングサテンドレスと、真っ白い背中を見送ったのだった。
真っ赤なドレープカーテンの揺らぎに邪魔され、なにもかもが掻き消えてしまうまで。
* * *
第四景 彼女の躍動、あるいは秘密の口づけ
ニッキーがいなくなると、そこはもう元のどんよりとした世界だった。
つまり、あちこちでいろいろな風体の男たちが、よからぬ欲望のはけ口を求めているような、いないような、アルコールを舐めつつ、特にこれといった行動にも出ず、なにかが起こるのを待っているような、いないような、締まりなくザワザワガヤガヤしているだけの、薄暗い空間だ。
突如、音楽が空気を一変させた。
僕は拳をギュッと握り、ステージ上に踊り出たダンサーの顔を追いつづけた。
〈あの子‥‥‥なのか‥‥‥?〉
見事な躍動であることは間違いなかった。
アップテンポな高音の連なる楽曲に乗り、鞭のように身体をしならせ、激しいターンを執拗に繰り返すその姿は、それまでの一七人の女たちとはまったく質の違うものだった。
美しい肢体であることもまた確かだった。
〝Glamorous〟や〝Sexy〟で形容される類ではなかったが、〝Slender〟だけでは少しもそれを言い表せていない。高すぎない身長としなやかに長い手足のバランスに、〝均整こそが美の条件〟なのだと信じ込ませるだけの説得力があった。
〈本当‥‥‥に‥‥‥?〉
だが、あまりに鬼気迫る場面なのだ。髪を振り乱し、一瞬たりともひと所に留まろうとしない――、
チータ柄ホットパンツ
ルースメッシュ白T
ダークブラウンスポーツブラ
は、少し前まで僕の左横に腰掛けていて、清楚で明るい雰囲気を漂わせていたポニーテール少女とは、あまりにもイメージがかけ離れていた。
「I love to get on the stage! I love to dance!」
あの、奇跡のような〝声〟を思い起こしながら、ステージ上の躍動の塊に目を凝らしつづけていた僕は、不意に、それが放った視線に射抜かれた。
〈あの子だっ!〉
それは一閃だけ僕に見せたニッキーの笑顔――ちょっといたずらっぽくて、底抜けに明るい、彼女らしい笑顔だった。
〈本当にあの子なんだ!〉
だが、それにつづいた展開で、僕は思わず目を閉じてしまう。
〈あああっ‥‥‥!〉
あろうことか彼女は、僕の方に顔を付けた見事な旋回――バレエ『白鳥の湖』における黒鳥の連続フェッテターンのごとき!――を繰り出しながら、白メッシュTを剥き、ブラウンブラを剥き、旋回の翼端に乗せ、遠心力にまかせて放り投げたのだ。
〈あぐっ‥‥‥!〉
僕は顔を背けたくなるのを堪え、ギュッと目を閉じた。そんな店にいるのに、そんな場所だとわかっているはずなのに、どうしても、露わになったダンサーの胸を直視することができないでいた。
〈!!!!〉
だが、僕にギリギリと歯噛みさせたその時点はまだ、彼女の舞台の〝序〟――ほんの導入でしかなかったのだ。
四部構成のショーの第二シークエンスは、長いながい〝静〟からはじまった。
その〝流れ〟はむろん、観衆には一切知らされておらず、演者である彼女独自の〝即興創作劇〟だったと思われるのだが、そこに秘められた本当のクライマックスシークエンスを開示してもらえたのは、最終的に僕の他にだれひとりいなかったことになる。
こんな具合だ――、
第二シークエンス『陽だまりの野』
上衣を放り投げたとたん、ダンサーは銃弾に射抜かれ、ステージ中央に倒れ伏した。
蘇るまで‥‥‥どのくらい待たねばならなかったろう‥‥‥音楽が演出に合わせられていたはずもないのだが、静けさしか憶えていない‥‥‥。
僕はその間、ハラハラしながら、床に突っ伏した演者の、大きく上下しつづける白い背中と、髪に覆われた頭部を、交互に見つめていた。
やがて‥‥‥ゆっくりと身を起こしたのは‥‥‥〝猫〟だった。
その夜見せられた複数のダンサーによる〝猫もどき〟の類ではなく、まったく見事な猫だった。
目を覚ましたばかりのそやつは、柔らかい動作と愛らしい表情で周囲を見回し、気ままに毛繕いをはじめた。
丸めた手の甲にはじまり、背中から尻尾の先まで、ひとしきり体を浄め終えた後、どこまでも勝手気ままな性格のそやつは、やおら客席に向かって這い寄ってきた。
〈Meaoooow!〉
音に出さずに鳴きながら、愛らしく、いたずらっぽく猫目を光らせながら、僕の前まで這い寄って、ステージ縁の〝餌〟に鼻先を伸ばし、まだ一度も使っていなかった僕のシングルとファイバーのなかから、シングルを一枚つまみ上げた。
〈Meow... meow... meow...〉
ひとりのアジア人客の前に、胸を両肘で隠すようなポーズで〝女の子座り〟したその猫は、楽しげな笑みをふり撒きながら、健康な細い指と適度に切り詰められた形のいいパールホワイトの爪で、ゆっくりと時間をかけ、紙片を折り畳んでいった。
一回Meow‥‥‥
二回Meow‥‥‥
三回Meow‥‥‥
猫は、三センチ四方になったそれを、目の前の客に向けてゆっくりと差し出し、首を傾げ――、
「Meeooow?」
咥えるよう促した。
魔法にかけられた客は、ただただ言われるがまま、されるがままだった。半口を開け、夢遊病者のようにステージに身を乗り出し、首を伸ばし、餌を咥えた。
それはちょうど、彼女自身がタイ人ダンサーに対して行なったことと同じだったわけだが、わかるだろうか? 餌の大きさがずいぶん違う。あの時は、紙幣を縦に一度折ったきりだった。
ニッキーはしばらくの間、親猫が仔猫をあやすような優しい表情で、スラリとしなやかな手指で、僕のバンダナ頭を撫で回していて、そして、彼女の微笑みが消え失せた瞬間は、僕の口にあった小さな紙片が、ゆっくりと、だが確実に、彼女の口に移ったときだった。
白い肢体は、甘い香りを残して、ステージ中央に弾け戻っていった。
有象無象の一般観衆は全員、ひとりの例外もなく僕の背後遥か遠くにいて、加えて彼女の髪が上手にブラインドになっていたため、そのときそこでなにが行なわれたのかはだれにもわかってなかったはずだ。
が、それでも、眠たげだった烏合の衆を奮い立たせるには充分すぎたらしい。
沸き上がる歓声と口笛――ニッキーのショーは広大な空間を支配した。
だが僕には、ステージ縁にもたれて歓声に照れ笑いを返している暇などなかった。
アジア人男の出演シーンはそれで終わりではなかったのである。
第三シークエンス 『甘美なる野生』
ふたたび自分の心臓の鼓動に全身を揺さぶられる思いがしたのは、髪の先端で幾度も大きな輪を描いたダンサーが、床に崩れ落ち、短い〝静〟を挟んで、ふたたび蘇ったときだった。
前回とは打って変わり、それは〝獣〟――同じ猫科ではあったが、今度は凶暴な野獣だった。
獲物に狙いを定めたチータは、恐ろしい顔つきで唸り、
〈Grrr! Roaoooor!〉
牙を剥き、宙を舞い、いきなり僕に飛びかかって来た。
野獣はガッと獲物の両肩に爪をかけ、荒々しく自分の胸に引き寄せた。
僕はたまらず目を閉じた。彼女の瞳の中の狂気の光が、とても演技のようには思えなかったからだ。
ぎゅっと目を閉じた闇の中で
柔髪の先端に鼻をくすぐられ
思わずブルっと身をすくめたその瞬間
左の瞼になにかが触れた
It's Okay... You are Okay...
大丈夫よ‥‥‥大丈夫だから‥‥‥
慰めるような、鼓舞するような囁きをはさんで
そのしっとりと柔らかいものは
今度は右の瞼を覆った
うあ‥‥‥すごいっ‥‥‥
思わず呻いた僕の睫毛の先端を
What... did you say?
なんて言ったの‥‥‥?
また甘い囁きで揺らし
I just said... it's... it's... you... you're... so good
必死で言葉を絞り出した僕の耳に
とてもスローで甘い息を
二度吹き込んだ
Thank……
You……
そしてダンサーは、弾けるように〝終演の舞〟に戻って行った。
ただし、少女はその前にもう一度、一ドル紙幣をつまみ上げ、今度は前よりも小さく――、
一回‥‥‥二回‥‥‥
もっと小さく
三回‥‥‥四回‥‥‥
もっと、もっと小さく
五回‥‥‥六回
サイコロよりも小さくなるまで
折りつぶし
男の口にあてがい
今度は咥えさせるのではなく
白い人差し指で優しく奥へ
奥へ、奥へと押し入れ
それから男の頭を引き寄せ
ちょうどミケランジェロ作
白い『ピエタ』像のように
胸に抱き込み
柔らかな髪のベールで包み隠し
ゆっくりと唇を重ね合わせた
男の口中に虚ろが生まれるまで
「舌に触れる舌ほど柔らかなものはない」――と言ったのはだれだったろう? 彼は詩人で、旅人だったように、僕の記憶の片隅にあるのだが‥‥‥。
* * *
第五景 バーガンディ色の唇、あるいは夢のその先
男―― Your lips...
君の唇‥‥‥
女―― Hun?
ン?
男―― You have burgundy lips...
バーガンディ色なんだね
女―― Don't you like it?
好きじゃなかった?
男―― I do. Yes, I love it.
好きさ、大好きさ
Looks very good on you.
とても君に似合ってる
女―― Yeah? Good.
そう? よかったわ
I put it when I dance.
踊るときの色なの
なんだなんだ? まるで台本でもあるかのようじゃないか?
彼女は今、僕の右側にいるのだ。座っているのだ、僕の右膝の上に、全体重をもってして。ゆったりと、ごく自然に、細く伸びやかな左腕を回しかけているのだ、僕の肩に。
ニッキーのことだ。
ロングドレスの美少女は、背筋をスッと伸ばしていて、それでいてしなやかに、柔らかにくつろいでいて、そしてなぜだか静かに遠くを――店内の喧噪やら立ち働くウエイターやら、その他大勢の有象無象の生き物たちの蠢きを、他所事のように眺めやっているのだ。
薄明かりのなか僕は
少し上向き加減に
彼女の横顔を見つめている
きれいな鼻筋を
輝石のような光の瞳を
すっと尖ってやがてまあるい
顎から耳元への流線を
そしてバーガンディ色の唇を
思う存分見つめている
――待て待て、詩人になってしまう前に順を追って話さねばなるまい。
これが〝ラップダンス〟と呼ばれる、その種の店のいかがわしいサービスなのである――かどうか、初めての僕はよくわかっていなかった。
ステージからニッキーが消えた後、僕は椅子にぐったり沈み込んでいた。なにが起きたのか理解しようとしていて、理解しきれずにいた。
ただひとつ確かだったのは、それがそれまでの人生で見聞きしていた〝ストリップショー〟などと呼ばれる類のものとはまったく異なっていたことだ。
目の前で繰り広げられたのは、演者の高い技量と、精緻な演出構成をもってして初めて実現できる、〝驚き〟の散りばめられた、どんな高級カジノホテルでも、どれほど高額なチケット代を払おうとも滅多に観ることのできない、とてつもなくクオリティの高い〝エンターテインメント〟だったのだ。
だが、しかし――、
〈俺が‥‥‥〉
である。
自分がまさにそのショーの一部であったこと、ならびに口笛と歓声の嵐を浴びたことを思えば、羞恥心がもたげてき、どんな顔をすればいいのかわからず――、
〈こんな場所であんなこと‥‥‥〉
椅子からズリズリと滑り落ちてミミズのように土中に消えてしまいたくなる。
〈本当に‥‥‥?〉
現実だったかどうかさえ疑りたくなるのだ。
「そんな幸せそうな顔してもらえて、僕も嬉しいですよ」
横からだれかがそう言ったのは、それが現実だったことの裏付けだった。しかも〝幸せそうな顔〟をしているらしいことも教えてもらえた。
「ああ、ケイちゃん‥‥‥なんなのこれ‥‥‥? こういう店って‥‥‥こういうもんなの?」
呆けきった大ミミズの問いに、友は冷静な分析口調で応じる。
「いやいや、とんでもない。滅多にない――と言うしかないでしょうね」
「滅多に‥‥‥あるの?」
「いや、ないです。まったくないです。僕もこんなの初めて見ましたもん」
「本当‥‥‥なの‥‥‥?」
「本当ですよ」
「いやそうじゃなくて‥‥‥本当なの?」
「は? なにがです?」
「いや、彼女の‥‥‥その‥‥‥気持ち?」
「Huh?」
「いや、だって彼女‥‥‥さっきずっとステージで‥‥‥ううっ‥‥‥」
「ハハハ、なにがあったんです? 彼女、見せないように、うまく髪でブラインドしてましたよ」
「いや、だってさ、あの子ずっと‥‥‥」
「まぁ、なんだか知りませんけど、とにかく、これはもう、あっちに行くしかないでしょう!」
友の示す先には、フォテルが三脚、広場の中央のほうを向いて置かれてあった。
「あ‥‥‥? うううっ!」
一人掛け用のソファ椅子――アームチェアと言ったほうがわかるだろうか。ベルベット製だが、あまりフカフカではないタイプの、アメリカの議会場で使われているような古めかしいやつだ。
その辺りは窓もなにもない壁際で、薄暗い店内のさらに薄暗がりで、けれどカーテンで隠されているわけでもなく、衝立てで仕切られているわけでもない、ただの〝喧噪から少し離れた暗がりにポツンポツンと椅子の置かれた奇妙な空間〟でしかなく、それらが〝ラップダンス用〟であることは圭に聞かされていたし、そんなコーナーが店内に他にも三ヵ所ほどあることは最初に観察済みではあったが――、
「ううう‥‥‥」
である。
「まさか俺が‥‥‥」
である。
「あんなものを利用したくなってしまうとは‥‥‥」
思ってもいなかったのだ。
「いいじゃないですか」
さすがの圭は落ち着いたものだ。笑顔であっけらかん。
「でも‥‥‥」
でもこっちはズブの素人なのだ。初心者なのだ。あの椅子はどこか〝変態的〟なのだ。簡単に割り切るわけにはいかないのだ。
「でもさ‥‥‥これがケイちゃんの言う‥‥‥ヴァンパイアの毒牙にまんまとかかっている――って図式なんじゃないの?」
「フフフ、そうかもしれませんね」
「‥‥‥かも?」
「まぁ、たぶん、そうでしょうね」
「チェッ、やっぱそうかあ! そうだよなぁ、ヴァンパイアなんだよなぁ、あの子も強かなプロなんだよなぁ‥‥‥やっぱやめとこうかなぁ」
「いいじゃないですか、あの子なら。めちゃくちゃ可愛いですもん」
「そう?」
「ですよ」
「やっぱり?」
「そうですよ」
「ホントにそう思う?」
「思いますよ、思いっきり本当に」
「‥‥‥‥‥‥」
ようやくズリズリミミズ男は椅子にまともに座りなおした。
「で? なんなの? なにができるの? いくら取られるの? 時間とかは?」
「まず値段は、女の子次第なんです。この店なら、一〇ドルから、せいぜい三〇ドルですね。時間も女の子によりますけど、五分なら長いほうですよ」
圭が〝オンナ〟ではなく〝女の子〟と言ったことに気づくのは、まぁ僕くらいだろう。
「で? なに? どんななの? 普通にお話なんかもできるの? だいたい彼女、ここに戻って来てくれるの? どのくらい待てばいいの? どんな顔で戻って来るわけ? あの子あんなことしといて? だいたい俺は、あの子が戻って来たらどんな顔すりゃあ――」
「まぁ、そんなのは――」
と、圭は落ち着き払ったまま言った。
「まとめて直接訊いたらどうですか?」
「え‥‥‥?」
「ほら、来ましたよ」
「え‥‥‥?」
圭の示す左方面に、恐るおそる首を回すと‥‥‥、
「はうっ!」
遠くの赤いドレープカーテンを背景に、黒ロングドレスが、こちら方面に向かって歩いて来ているのが見えた。
「‥‥‥あ?」
それが困ったことに――、
「‥‥‥あうううっ!」
本当に困ったことに、遠目にその女の子の、身長の七分の一に満たないであろう小さな顔に、ポニーテールに戻ったそれに、〝微かな笑み〟があるのが見てとれたのだが、そこまでは〝すでに知っている〟その女の子であり、どうにか落ち着いて対処しようもあったかもしれないのだが、遠くのその笑みは、二つの点で〝単なる笑み〟ではなかったのだ。
思えば、その晩のニッキーは、いやニッキーと僕は、すべての局面において、Ordinary(普通)ではなく、Unexpected(想定外)だったのかもしれない。
いやそもそも、人生のすべての局面においてそうあることが僕の望みだったのかもしれない‥‥‥が‥‥‥今ここで言うことではあるまい。
そう、二つの点で〝ただの笑み〟ではなかったのだ。
まずひとつには、遠くのその小さな顔自体が、僕が目を向けたまさにそのとき、左上方二二度あたり――壁と天井の境い目あたりの〝虚空〟を見やっていて、つまりこちらを見ておらず、歩きながらなにやら〝もの想い〟に耽っている風情だったことだ。
そして二つ目だが、こちらはもっと殺傷力が高い。僕の視線に気づいたその瞬間、その笑みは、少し大きくなり、つと、視線を伏せたりしたのだよ。
わかるだろう? わからないか? わかってほしい、わかれ。これがどれほど〝困ったこと〟なのか。
さらにだ、ストンと元の席に座ってからの第一声が――、
「How did you like me dancing?」
と来たもんだ。たまったものではない。
What a difference a line can make...
言葉とは、これほどに威力を秘めたものなのか‥‥‥もう哲学者にならざるをえまい‥‥‥。
繰り返す。
遠くから、どこにも寄り道せず、〝なにごとか〟を思い返しながら、だからどこにも寄り道せずに真っ直ぐに僕に向かって歩いてきて、当然のように僕の左の席に座り――、
「How did you like me dancing?」
と言ったその女の子は、ずっと〝はにかみ笑顔〟をまとっていたのだよ。
ずっと変わらぬ透き通る黒の瞳で、ちょっとハスキーな高い声で、照れくさそうに、照れくさそうに――だ、
「踊っている私のこと、好きだった?」
などと、ステージ上で起きた事態――それは彼女自身の行ないなのだ――への〝感想〟を、自分が強引に引きずり込んだ相手役であった僕に、直接、ど真ん中の直球勝負で訊いてくるなんぞは‥‥‥ああ、なにを言っているかわからないかもしれないが‥‥‥どうすりゃいい?
「!!!!」
僕はもう、それが〝罠〟だろうが〝猛毒〟だろうが〝白昼夢〟だろうがどうでもよくなり、〝その先〟に一歩踏み出すことに決めた。ああ、そう決めたさ。そうするしかないじゃないか!
〈あんなことをしたあと‥‥‥どんな顔で僕のところに来るんだろう‥‥‥? なんて言うんだろう‥‥‥? だいたい来てくれるもんなのか‥‥‥? だいたいあれは本当に‥‥‥?〉
愚鈍な男の愚鈍な頭の中で、ムクドリの大群のように飛び交っていた夥しい量の〝?〟を、少女は〝恥じらい〟という、あまりにもアメリカ的ではなさすぎる表情をまとって現れることで、あっさりと薙ぎ払い、同時に男の背筋から延髄にかけてのいわゆる中枢神経を、ズバッ!といとも簡単に撃ち抜いたのだ。
「踊っている私のこと、好きだった? 好きだった? 好きだった? 好きだった? 好きだった?」
こだまに頭蓋内を占拠された男は、いきなり左方面に体を向き直り、言った――、
「I'd like... errr... a lap dance... with you...(あー‥‥‥ラップダンスしたいんだけど‥‥‥君と‥‥‥)」
それがその種の場での正しい言い回しだったのかどうか、僕にはわからない。わかりようがない。
ただ、くどいまでに重ねるが、目の前で裸を披露してくれたばかりの素敵すぎる少女が、ステージ上で夢に誘ってくれた女の子が、元の清楚なドレス姿になり、勿体も付けずに、焦らすこともなく、時を置かずに隣の席に戻ってきてくれ、しかも終始〝照れくさそう〟にしているのと同じ分だけ、ああその分だけ、僕もなにか恥ずかしいことをして返そうとした――ような気概だったと思うのだが、そんなことはどうでもいい。
なぜなら、そこからの彼女の反応が、また〝謎〟というか、〝不可解〟だったのだよ!
「あらそうなのお~ん? ウッフ~ン! もう一度メロメロにしてあげるわよ~ん♡」
などと言ってくれたほうが、よっぽど与し易かったろう。ならばこちらも気楽に、その場限りの〝悪輩〟を演じられる。
ところがニッキーは、こんなふうに応じたのだ、高いハスキーな声で――、
「Really? (ホント?)Are you sure?(ホントにホント?)」
どこまでも無邪気なのだよ‥‥‥くれぐれも高いハスキーな声だ。しかもME?と言うとき、胸の上に両の手のひらを重ね合わせたりするのだ。
「You REALLY? (本気なの?)Really wanna have a lap dance with ME? Oh, you――!(私と? 私とラップダンスしたいの? もう! あなたったら!)」
考えてみてほしい‥‥‥全力で思い描いてみてほしい‥‥‥極上の容姿を持った元気美少女が、目の前で、心から楽しそうにしゃべっていて、いたずらを咎めるような表情を向けてきたならば、男はいったいどうすりゃいいのか‥‥‥?
僕の場合は、またしても、珍種テレテウツムクカタツムリでしかなかった。
まぶしすぎるのだ。なにもかもが想定外すぎ、目が眩みそうなのだ。
男は、思いもしない方角から射かけられてくる不思議純真光線に、もう幾度となく胸を貫かれてしまっているわけだが、ずいぶん前に言っておいた〝恋に落ちた決定的瞬間〟は、まだやってきていない。
思えばニッキーは‥‥‥僕の中になにかの匂いを嗅ぎ取っていたのではなかろうか? またそれは、あながち一方的なものでもなかったのかもしれない‥‥‥が、あれもこれも後回しにしよう。
それを言うのは僕ではないのかもしれないし、今は〝夢のその先〟に誘われたい。
* * *
第六景 その瞬間、あるいは「はじめましてニッキー」
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