“教育”を商品化する危険性
いわゆる社会起業家が社会にとって必要なことをしようとした時にぶつかる大きな壁が“お金の問題”です。
これは現代社会の見えにくい弱点であり、考えてみれば当たり前のことなので何十年も前から資本主義の弱点として指摘されていたことでもあります。(もちろん僕も調べてみてわかったことですが。)
“教育”という分野ももれなくこれにより、本質的に必要な“教育”が提供されにくいという現場にあります。
本日はその部分を解説してみます。
社会起業家の苦悩
まずなぜ社会に必要な事業がお金になりにくいのか。
僕の文章ではもしかしたら伝わりにくいかも知れないので、とても分かりやすく解説して下さっている美文を先にご紹介しておきます。
株式会社talikiの中村社長の
「社会課題の解決」って何なのよ議論に終止符を 」
というnote記事。
詳しいことはこちらに書いているので、僕からはもう少しざっくりとしたお話をしようと思います。
具体的に“教育”という分野で考えましょう。
「経済」という世界の中で何か「モノ・コト」を広めようとする時に重要になるのが「ニーズ=みんなが欲しいと思う気持ち」です。
「みんなが欲しいと思う気持ち」に沿ってあらゆる商品やサービスは流通します。
これは公共サービスなども同じで、例えば「学校」も私学など競合がいれば必ずニーズのあるところに人が集中します。
さて、ここで早くも大きな問題が露呈します。
「ニーズ」は必ずしも「本当に必要なもの」を求めるのでしょうか?
「ニーズ」は「欲しいもの」は求めますが「本当に必要なもの」は求めません。
これはあくまで“大抵の場合”という条件付きなのと、「欲しいもの」と「本当に必要なもの」の違いを説明する必要があるのでここからはその説明に入ります。
「欲しいもの」と「必要なもの」は違う
少し極端な例を出した方がわかりやすいかも知れません。
例えば
「とっても美味しいけど、食べ続けると身体に悪い食べ物」
は、「身体に悪い」ということを伏せて盛大に広告し、求めやすい価格で販売すれば恐らく流通します。
もう一つ、
「とっても楽しいけど、広まるといずれ社会に悪影響を与える娯楽」
も、同じ条件で広告すれば流通する気がします。
更に“広告”という分野はいかにその商品やサービスを売るかということだけが目的なので、「消費者の身体」のことや「社会の秩序」のことなど考えることなく、専門的な技術を使ってあたかもその商品やサービスが必要なものであるかのように思い込ませようとしてきます。
このように「欲しいもの」というのは長期的に見てその人にとって良いものか悪いものかとは別に「主観的に欲しいと思い込ませられたもの」、一方で「本当に必要なもの」というのは「俯瞰的に見て必要と思われるもの」ということになります。
売りやすい商品と売りにくい商品
ここまでのことを考えると僕としては「教育」は市場原理に依存させてしまうと腐敗すると考えています。これは「食(農業)」や「医療」も同じです。安全保障を考えて国が規制などのルールを設ける必要がありますが、最近ではどんどん規制が緩くなっています。
ただこういった話をしていると「“本当に必要なもの"を“欲しいと思い込ませれば”良いじゃないか」と指摘されることがあります。
これについては「欲しいと思い込ませる」為の広告技術に適した商品とは何かを考える必要があると思います。
「限定性」「権威性」「すり込み効果」など広告的な方法論は色々ありますが、ここで重要なキーポイントとして提示したいのは「わかりやすさ」です。
広告にとって「複雑性」は敵なのです。
つまりぱっと見で理解出来て、反射的に良いと思えるものが広告しやすい商品と言えます。
例) 僕は“牛乳”が大好きです。
“物事の本質”というものは大抵の場合は複雑なものです。
例えば、昔からカルシウムが豊富で子供の健康や成長に良いとされていた「牛乳」はここ数年の間に「実は日本人の身体には合わず逆に健康に良くない」という逆張りの意見が散見しています。
理由を見てみると、
・ 元々日本人は長い期間乳製品に馴染みのなかったので乳糖を分解する酵素が欠損している人が多い
・ 現代食ではカルシウムの吸収を阻害するリンを多量摂取する傾向にある
など様々な理由が考えられますが、結局その人の元々の体質や普段食べているものに依存する話なので一概に言えません。(ちなみに僕は牛乳を愛しているので仮に身体に悪かろうが関係ありません。love milk.)
ただ一つ確実なのは、「カルシウムが豊富だから健康に良い」というだけの単純な話は科学的とは言えないということです。人間が栄養を吸収するシステムはとても複雑だし、健康は様々な栄養素の調合によって成り立っている訳です。
だけどそんなことをちまちま説明するよりも広告としては「カルシウムが豊富で健康に良い」と言い切らないと売れません。
例)養成所ビジネスがこれからのモデルに?
これを教育分野に当てはめた時、僕が働いていたタレント養成所で起こった出来事を見るとわかりやすいと思います。
「こんな大物タレントが所属している大手事務所です!」
「大きなファッションショーに出場出来ます!」
「あの人気モデルが特別講師で来校します!」
大体どこもこんな感じの広告で大勢の若者たちを集めています。
ただ詳しくは書けませんがほとんどの場合それらは“虚構”と言える内容です。レッスンはとてもプロを目指す人向けと言える内容ではなく、本当に可能性のある子がやってきた場合は本格的なレッスンの行える別の機関に送り込むこともあります。
それでも人は集まります。
芸能人になる為にどんなレッスンが必要かなんてほとんどの子ども達は知らないので、嫌にならず、やってる感のある、それっぽいレッスンさえ提供すれば納得してくれる訳です。むしろ本格的なレッスンなんてしてしまったらほとんどの子が嫌になってやめていくのが目に見えているので“本気のレッスン”を提供することはまずありません。
“教育”を商品化する危険性とは
教育とは何を目的としてどんな方法論を用いるべきか、僕もずっと考えていますがこれはかなり哲学的で専門性の高い問いだと痛感しています。
しかしこれだけ不登校が増え、学校教育の外に教育機会を作ろうという動きが増えた今、「本当に必要な教育」は流通するでしょうか?
広告や販売戦略で人を集め、稼いだお金を更に広告や販売戦略に投じる、という循環を繰り返す土俵で戦うということは、どれだけ広告や販売戦略にお金を出せるかという競争原理が働くことになります。
いずれ必ずその資金を生み出す為の経費削減に踏み切り、経費削減合戦の末質が低下するということは避けられないのではないでしょうか?
教育の成果を実感するのは何年も先のこと。
これまで教育の評価基準を示してきたのは偏差値ですが、本当は働き始めてからの生き方が評価基準になると僕は思っています。
もし「本当に必要な教育」かどうかを計るものさしが、そんな目に見えない評価基準であるとしたら、市場原理に委ねることで業界の腐敗は免れないと僕は強く思います。