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【ピリカ文庫】小説|先生の話

 九月も終わりになると、音楽室の木の床は直に座ると冷たい。六人ほどの生徒が、互いに少し距離をとって、宿題を片づけたり絵を描いて遊んだりしている。先生がいるのに床に座れるのは放課後の特権だ。琴子は今日の宿題の二桁の足し算と引き算を解いていた。

 先生は秋空のように澄んだ曲をピアノで弾いている。アップライトピアノは学校にある唯一の楽器だ。他の楽器はお金がなくて買えないのだという。

 一人の子が何を弾いているの?と道子先生に聞くと、バッハよ、と先生は答えた。ピアノの譜面立てにはくすんだ色の楽譜が置かれていた。

 道子先生は、怖くはないが、騒がしい時でも口を開けば誰もが鎮まる。金切り声で怒鳴ったり、竹刀で脅してくる先生たちとは違う。物静かだが気品があり、そしてどこか逆らえないような力強さを感じさせるまなじりを持っている。

 琴子が音楽室で宿題を済ませるのは、家に居場所がないからだった。彼女が住んでいるのはとても狭いアパートで、六畳の居間に小さい台所が三畳、たったそれだけなのだ。学校から帰れば家事を手伝わされるので宿題ができない。だから居場所のない他の子たちと同じように音楽室をたまり場にしているのだ。

 大抵の女の子は校庭や近くの公園でゴム飛びやけんけんぱをして遊んでいて、男の子たちは野球に夢中だ。誰もが王選手や長嶋選手の真似をして素手でゴムボールを打ち、ピッチャーは口で言うだけの魔球を投げていた。

 さっきから道子先生はピアノを、同じところを何度も繰り返し弾いている。どこかうまく弾けないのか分からなかったが、少し進めては同じところで止まってしまうのだ。やがて諦めたようにため息をつき、両手を挙げて伸びをしたと思うと琴子たちの方に振り返った。

「何かお話でもしましょうか」

 道子先生はたまにこのように言っていろいろな話を聞かせてくれる。みんなはピアノの周りに集まってきて、先生の話を待った。

「皆さんは、憲兵って知っているかしら」

 太平洋戦争中、憲兵はとても威張っていたそうだ。お国のことや戦争の勝利を疑うような人たちを連れて行って、木刀で殴ったり、蹴ったりしてひどい目に合わせたという。ある地方のある大きな家の息子が、憲兵だった。

「その憲兵のお父さんは軍隊で飛行機の設計をしていた偉い人で、周りの家とは違う、困った暮らしをしていなかったそうです。そうね、いい憲兵さん、とでもしておきましょうか。いい憲兵さん自体は大陸にいて、その近所でひどいことをしたわけではなかった。けれど、村には一人、自分の気に入らない人をしょっ引いては暴力を働いたり、突然他人の家に入っては貴重なお米や砂糖を奪っていった悪い憲兵がいたそうよ。やがて戦争が終わると、その村で威張っていた悪い憲兵は死んでしまった。終戦の知らせを聞いて切腹したという噂も、恨みを持つ誰かに殺されたという噂もあったそうです」

 道子先生は時々昔の難しい話をするのでみんなは期待が外れたように少し退屈しはじめていた。大野君は足を前に投げ出し、弥生ちゃんは膝を丸めてその中に顔をうずめていた。

「いい憲兵さんは戦争が終わると、やがて大陸から帰ってきた。そうして、大きな家で家族とふたたび暮らし始めた。奥さんと、小さな娘さん、三人家族だった。その家にはちょうどこんなピアノまで置いてあってね。奥さんが娘さんに熱心に教えてあげていたそうよ」

「いい元憲兵さんはまじめな人で、悪い憲兵とは似ても似つかない人だったのだけども、村の人たちはよく思わなかった。だって、みんな悪い憲兵の印象が強くて、いい憲兵さんのことも戦争中は誰かをいじめていたと思われていたのね」

 先生の顔は次第に険しくなっていったので、みんな話に飽きてはいたけれど黙っていた。

「いい元憲兵さんが帰ってから数年がたった時のある晩、その大きな家の納屋から火が出たの。火の気のない、物置小屋からよ。当然その家は消防隊に連絡をした」

「けれども、消防隊は来なかった。やがて火は家まで移ってしまった。小さなぼやで消せると思っていたのに、消防隊が来なかったせいで大きな家事になってしまったのね。いい元憲兵さんとその奥さんは必死に火を消そうと頑張ったけれども駄目だった。すっかり焼け落ちてしまった後で消防隊が来て、これは放火のようですな、と言ったきり戻っていったそうよ」

 道子先生の顔は今までに見たこともないほどきつい顔になっている。

「先生、ちょっと怖いです。その話、まだ続くんですか」と弥生ちゃんが頼んだが道子先生はかまわず話をやめない。

「消防隊の人たちが帰ったあとで、火が消えたと思っていた柱の一つが倒れてきたの。まだ熱かったその柱は、その家の小さな女の子に向かって倒れてきた。いい元憲兵さんは娘を助けようとしたけれど、間に合わなかった。女の子は柱の下敷きになってね。病院に運ばれたけど、火傷がひどくて結局亡くなってしまったの。皆さんと同じくらいの歳でね。……はい、先生の話はこれでおしまい」

 弥生ちゃんは汗びっしょりの手で私の膝をつかんだ。大野君は青ざめた顔で黙りこくり、島崎君はいつの間にか正座になっていた。

 いつの間にか空は薄暗くなり黒い雲が覆いだしてきていた。道子先生は生徒たちに「さあ、雨が降りだす前に帰りましょう。先生もこの部屋に鍵をかけるから、皆さんも準備をしてね」と静かに言った。

 生徒たちは慌てて散らかっていた本やクレヨンを仕舞いはじめた。先生はその様子を、能面のような顔でじっと見ていた。今まで見たことのない表情だった。

 大人になった琴子は時折、道子先生を思い出す。私たちが卒業してからどこかに転勤したのかも、もしくは教師を辞めたのかもわからない先生。同窓会にも出ず、行方知らずの先生。あの日の譜面立てにあった焼け跡の残った楽譜を思い出すのだった。

(了)

ピリカグランプリ(短い創作のコンテスト)の主宰・ピリカさんから光栄にも「ピリカ文庫」への執筆依頼を頂き、『楽譜』をテーマにした創作をしてみました。

昭和の時代の少しホラーな話です。創作ですが、憲兵の話は実際に聞いたことのある話を脚色しています。

ピリカさん、このような機会を頂きありがとうございます。

※ピリカ文庫とは

ピリカさんがテーマを指定して、noterさんに執筆してもらう、という企画のマガジンです。

読みやすい長さで才能あふれる作品だらけ…恐れ多すぎる…!

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