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愚かでありたいという願望

以前、「死にたい」という言葉の裏にはもっと詳細な本音があるはず、という考えを書いてみた。

それと関連して「もっと生きたいなぁ」と思うこともある。生きているのにそんなふうに思うのもおかしいが、この「生きたい」という言葉も、もっと細かく砕けば何かしら各々仕様の翻訳された言葉が出てくるんだろうなと思う。

私の場合のそれは「もっと愚かでありたい」だなと思った。
愚かでありたい。安心して、減速することなく、愚かでありたい。
大人になると安心して愚かであることがなかなか難しくなる。だからいまだにそういう願望があるのかもしれない。

愚かでありたい、というのはつまり「何かに夢中になりたい」とも言えるなと思った。
何かに夢中になることなく過ごしていると、知らん間に生きている感覚が薄れている。

自分は何かに夢中になりたいのだなと思った。そうやって内側の火を自分のために燃やしたい。それも「ちょっと楽しいかな」程度のものじゃなくて、内側がゴーゴーと燃えて「あっちー!」ってなるくらいの、情熱の対象があれば尚いいのだが。

変なところで勇気を出したり、意味のないことに愛を注いだり。私はそういう人たちを見るのが好きだ。それはその人たちがきちんとオリジナルの情熱を自分で燃やして生きているからなんだろうなと思った。せっせと自分の情熱に薪をくべている。良いとか悪いとかのジャッジの外側にいる、「生きている」人たち。
結局そういうことが命の財産になるのかな、と思うと、自分もそうでありたいと思う。

願望はあくまで願望だから結局は地に足つけながら夢中になれることをやる、ということになるのだけど。でも願望を認めると少し元気になる。脳内検索エンジンが「愚かであれる可能性」を探り始めて、心にいくらか余裕ができた。

画像:unsplash
roya ann miller

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